幕府を作り上げた人々
 ~有能な代官―大久保長安~
武田の旧臣から抜擢
 


 家康による武田旧臣の抜擢
天正10年(1582)3月、甲斐の武田勝頼は、織田・北条・徳川の連合軍に滅ぼされ、6月には天下統一を目前にした織田信長が、家臣明智光秀のため本能寺において殺された。
この二つの事件は、東国においてはしだいに勢力を伸ばしてきた家康の運命を大きく好転させることとなった。つまり、このときから家康の所領は、それまでの三河・遠江に、駿河・甲斐・南信濃の三カ国を加え、いわゆる五か国を領有することになり、「東海一の弓取り」と称する実力者となる基礎が出来上がったのである。
家康は、武田氏滅亡後、多くの優れた人材を徳川家臣に取り立てている。それはかねてから信玄の軍事・民政に強い関心を持っていた家康に、甲州流の仕法を積極的に採用していこうとする考えが強くあったからである。この時期に、武田蔵前衆(代官衆)として甲州流の技術に通じていた大久保長安は、徳川家臣団に組み入れられている。
 信玄に抜擢された長安
大久保長安は、天文14年(1545)、金春座の猿楽師大蔵大夫の次男として甲斐国に生まれた。つまり、長安の家は生え抜きの甲州武士ではない。幼い時には「大蔵藤十郎」、成長してからは「十兵衛」と称した。
若い頃から長安は利発者であったらしく、やがて武田信玄の目に留まり、兄の新之丞とともに武士に取り立てられている。恐らくその時蔵前衆、つまり代官衆に任命されたのであろう。もちろん、地方巧者の集団である蔵前衆は金山衆とも親しい関係にあり、長安はこの時甲州流の用水土木や鉱山開発の技術を習得することになったのであろう。
甲斐国は甲府盆地を中心に、周囲が山に囲まれている国である。ここから信玄が東国随一の戦国大名に台頭できたのは、この国の灌漑治水や金山開発の優れた技術の力によるところが多い。山から盆地へ流れる釜無と笛吹の二つの川の氾濫が、水利土木の技術開発によって抑えられ、田畑の土地生産力が一段と高められ、それとともに、それまで眠っていた黒川(塩山市子)や黒桂(つづら)・保(ほう・早川町)などの金山を一斉に目覚めさせ、開発が一層促進された。こうした開国の富国強兵策の基礎を固めていったのは、いうまでもなく、武田領国支配以降の蔵前衆や金山衆などの技術者集団の努力であった。

 大久保姓を与えられる
天正10年、武田氏の滅亡によって、甲斐は新たに徳川氏の領国下におかれることになった。そのとき蔵前衆の大部分は、そのまま徳川家臣団に組み込まれていったのである。長安が登用されたことについては、様々な説がある。まず「吉利支丹濫觴記」によると、「十兵衛、利発者にて武田の軍法を覚えて、相模守(大久保忠隣)に語る。その上、勝頼滅び、家康公甲州入りの時、甲斐・信濃の案内仕り、忠隣に武功を立てしかば、御家人となさしめ、名字を給わる」とある。つまり、利発者の長安が、大久保忠隣を甲斐・信濃へ道案内し、大いに戦功を立てさせたため、家臣に取り立てられ名字を授けられたというのである。確かに他の史書でも、長安が大久保姓を名乗ったのは、大久保忠隣から与えられたときからとされている。
これに対して「武徳編年集成」によると、藤十郎はそれまで甲斐国奉行の日下部兵右衛門に従っていたが、たまたま、足利家御所営作の図と細川物数奇の風呂の絵図面を参考に、桑木風呂の湯殿を造って献上した。これが家康の御意にかなって、大久保忠隣に預けられることになったというのである。ここでは、長安の建築技術の才能が大いにものを言って登用されることになったとある。いずれにせよ、長安が種々の技術を身に付けていたことが、登用の一つのきっかけになった事は間違いない。




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