2・長岡藩の軍政と装備 幕末期諸藩の兵制 |
幕末まで続いた「中世的」軍備・軍隊 |
長岡藩は元和4年(1618)牧野忠成が移封して以来、250年間封を継いで明治を迎えたが、譜代大名とはいえ表高7万4千石の小藩であって、幕末における諸藩の軍制改革に当たって指導的な役割を果たしたわけでもなく、極めて平均的な藩であったといえる。 元和偃武により国内の反抗者を一掃した徳川氏は、諸侯の妻子や家人の江戸在府を命じて人質に取り、参勤交替や国替えによって大名の在地化を防ぎ、さらに幕府関係の居城修築や日光造営あるいは河川の改修事業などを課して、その財力を疲弊せしめ、軍事費の蓄積を防止する政策をとった。 もちろん武家政治の根幹は武力を背景にしたものであるから、諸侯の石高に応じて戦時の軍役を課するための兵制は、建前としても定められている。大体次のような装備である。 1万石 馬上 十騎 旗 二本 槍 三十本 弓 十挺 鉄砲 二十挺 5万石 馬上 七十騎 旗 十本 槍 八十本 弓 三十挺 鉄砲 百五十挺 10万石 馬上 百七十騎 旗 二十本 槍 百二十本 弓 六十挺 鉄砲 三百五十挺 これに対する兵員の数は、1万石が235人、5万石が1005人、7万石が1463人、10万石が2155人であって、慶安2年(1649)の軍役定めにおいて常備兵力の保持を義務付けており、寛政4年(1729)及び弘化2年(1847)にも再確認されている。 しかし、その内容については形式的な員数合わせが守られたに過ぎなかったであろうことは、長い泰平によって貨幣経済が発達し、消費生活が膨張して台所が苦しくなり、諸藩をして高利貸資本への依存が高まるにつれ、武士の窮乏に拍車がかかって、家臣団の道義観念が衰退するに至り、本多利明をして「当代は諸侯の家臣本禄を給はることなし。半知以上の借しあげに逢いて主を怨むこと怨敵の如く、云々」と言わしめたように、財政困窮は軍備の維持どころか、武士の魂と言われる武具をも売り払って生活費に充てるといった状態で、これを「世事見聞録」によって覗いてみると、「なべて武家は大家も小家も困窮し、別て小録なるは身体甚だ見苦しく、或は父祖より持伝えたる武具および先祖の懸命の地には入りし時の武具、其の外家に取りて大切の品をも心無く売り払ひ、又拝領の品をも厭わず質物に入れ、或は売り物にもし、又御番の往返、他行の節、馬に乗りしも止め、鑓を持せしを略し、侍・若党連れたるも省き、又衣類も四季折々の者、質の入替又は懸け売りのせり呉服といへる物を借込て漸問を合わせ」るといった有様であった。 |
兵法は戦術論ではない |
しかも諸藩の兵制は、近代における組織的軍隊ではない。主将一人の才覚に頼る集合にしかすぎず、大将の死はそのまま軍の崩壊を意味するものであった。 江戸時代の特色とするものに兵学と呼ばれるものの発達があり、これがよく用兵術と誤られているが、本来は武士の教養学であって戦闘原理の研究(孫子などの)ではない。大半の兵法書には、武士の日常作法を説いており、いわば政治倫理学であって、その中心となる思想を神道と儒教から求めたもので、戦術論とは言えない。 また、江戸時代の武術というのは、馬術・刀術・槍術・砲術をはじめ、それぞれ何々流と称するギルドがあって家元が問戸を張り、奥義秘伝と唱えて公開を厳重に禁じていた。近代兵器による砲術についても同様で、幕末近くには二百余流もの流派が生まれ、いずれの藩においても複数の流派を採用しているのであるから、各流派間の反目が強く、個人の功名心が優先することから見ても、組織的軍隊になるには程遠いものがあった。 |
組織的軍隊がなかった日本 |
幕末になって西洋式兵制が導入されるまで、わが国には組織的に統制された軍隊はなかったのだろう。戦国時代における名将達は個人的な力量と経験によって兵士を統率したのであって、軍団を構成している兵士たちは、それぞれ自己の技術によって採用されたもので、訓練によって育てられた兵ではない。それは江戸時代のどのような兵書を見ても「号令詞」というものが記載されていないことで証明できる。 標準的な号令詞がないということは、兵士たちを統一された方法で訓練していなかったということである。幕府の記録を見ても、巻狩りぐらいが大規模な軍事調練を兼ねたとされているくらいであるから、疑惑を招くようなことを恐れる諸藩が軍事訓練に力を入れるはずもなく、ただ名のみの軍隊が存在したに過ぎない。 それでも国内戦を想定した場合には、敵味方ともそれほど変わりない同士であるから問題はないが、ひとたび西洋近代的軍隊と接触すると、そのお粗末さは目を覆うばかりであったに違いない。 |