長浜
 
~秀吉出世の象徴の城下町~ 


 滋賀県長浜市
 歴代藩主   羽柴家―秀吉
        柴田家―勝豊
        山内家―一豊
        内藤家―信成・信正
 遺構     長浜城(天守閣・石垣)、

 
 秀吉による城下町の整備 
羽柴秀吉が初めて居城として築いた城として知られる長浜城。もともとこの地は今浜と呼ばれ、室町時代の初めには近江を治めた佐々木道誉が、出城を置いたと伝えられる。以後、佐々木氏の家臣が守将として在城する。
戦国時代には浅井氏の所領となるが、城は小谷山に置かれた。織田信長は対立した浅井氏を滅ぼすと、その戦いでの功により羽柴秀吉に浅井氏の旧領湖北三郡を与えた。秀吉は不便な小谷城を廃し、今浜に新たな城を築き、城下町を整備。町の名も信長から一字を賜り「長浜」と改めた。
長浜城下は、整然と区画されており、現在でも街並みは健在である。また、現在の長浜の町中にも、川や水路が多く残されており、水路から琵琶湖を使った水運を生かした街づくりがされていたようである。長浜城は軍港も備えた水城でもあり、安土城や坂本城などと船でも往来していた水上交通の要衝でもあった。
 江戸期は宿場町、門前町として栄える
秀吉はおよそ10年間長浜を本拠としたが、天正10年の清須会議後は柴田勝家にこの地を譲り、勝家の養子の勝豊が治めた。翌天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いの際、長浜城は重要な役割を果たした。秀吉が義父の勝家と不仲であった勝豊を篭絡し、難なく長浜城を奪還している。これによる戦いの帰趨が秀吉に大きく優位に傾いたといえる。以後、長浜城は秀吉の家臣、山内一豊が5年間在城。慶長11年(1606)になると、徳川家康の家臣である内藤信成が入城する。その子信正が元和元年(1615)に摂津高槻に移ると、廃城となった。
長浜が城下町であった歴史は40年ほどで、以後は大通寺(長浜御坊)の門前町、北国街道の宿場町として栄えてきた。そのため城の縄張は不明な点が多い。

 大通寺(長浜御坊)

安土桃山時代の建築様式を伝える真宗大谷派の別院。伏見城の遺構と伝わる大広間、円山応挙や狩野山楽らの襖絵などが見られる。


 
 
 長浜城

初めて城持ち大名となった羽柴秀吉が、山城の小谷城を廃して築いた城。現在、城のあった場所に建つのは「長浜城歴史博物館」であり、天守閣の形や位置は史実には基づいていない。





 豊国神社

秀吉公の遺徳を忍んで、町衆が建立した神社。徳川政権下、表向きは恵比寿宮であったが、奥に秀吉公の神霊を祀った。加藤清正の銅像もある。
 
 鉄道スクエア

明治時代、長浜は近畿・東海地方と北陸とを結ぶ交通の要所であり、鉄道の開発によって町も大いに発展した。往時の駅舎の様子や、かつて使用した列車の展示、電車についての様々な展示がなされている。
 
 黒壁スクエア

長浜の古い街並みは、秀吉時代の城下町、江戸時代の門前町・宿場町の物と併せて、明治時代日本で三番目に鉄道が敷かれた町として、県下初の小学校や、銀行などが建てられるなど、自由都市の気風が街並みに反映されている。黒塗りの建物が多い街の中心街一体を指す。
 
 
水路を生かした街並み
 
北国街道沿い

黒壁ガラス館 

水路を生かした街並み2 

水路を生かした街並み3




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