人間・立花宗茂研究 ~戦い続く~ |
岩戸郷に到着し、宗茂は先陣を願ったが道雪に許されず、後陣に備えた。道雪以下千人がまず攻撃を開始した。彼らは堀を越え、柵を破って突撃し、たちまち正面の軍を蹴散らして引き返そうとしたとき、三か所に伏せていた原田、宗像、秋月の三千の軍勢が三方から同時に奇襲をかけてきた。多勢に無勢であり、道雪は次第に押されて後退を始めた。それを見た宗茂の後見役が「そろそろ頃合いでしょう」と救援を促したが、宗茂は「石坂の戦い」での道雪のように、ひたすら戦況を見守り続けた。すると、道雪の兵を取り囲んで攻撃を加えている敵兵の横合いからさらに別の一隊が現れ、「原田親秀の家来薦野大炊なり」と名乗りを上げて、側面から鉄砲を乱射。道雪の兵がバタバタと倒された。 戦局がまさに変化したこの一瞬を捕え、宗茂は決断。馬に飛び乗り、五百の兵を二手に分け、「私は三百の兵を率いて薦野大炊らの兵を突き崩す。それを見たら残りのものは堤の上に旗を立てて大声を上げよ」と命じ、原田郡に向かって突撃していった。優位に立ったと思ったその瞬間にいきなり奇襲を受けた原田軍は動揺し、たちまち突き崩され、後方へ退却した。その頃合いを見計らい、堤の上に立った宗茂の二百の兵が、旗を振りながら「わーっ」と喊声を上げたため、大軍の出現かと錯覚した包囲軍は陣形を乱して逃走した。 窮地を脱した道雪軍は、たちまち反撃に転じて多くの敵兵を討ち取った。首実検をしたところ、敵兵の死者は320人であり、それに対し味方の死者は2百余名であった。この戦いで宗茂は、確かな形成判断と奇襲攻撃と威嚇行動を織り交ぜるという知略に満ちた行動により勝利を収めた。70歳を超えた名人道雪でさえ「宗茂は天性の素質を備えており、将来素晴らしい武将になろう。長生きして行く末を見守りたい」と絶賛した。
九州でも長いこと、大友、島津、龍造寺の三大勢力が拮抗していたが、天正12年にこの均衡が崩れた。宗茂はこのとき18歳、「体躯肥大、容貌魁偉、眼光炯々」と言われた通り、眉目秀麗とは程遠く、勇壮な風貌の青年になっていた。首周りは大きく、肩幅ががっちりと広く、おでこがやけに大きな、眼光鋭い、筋骨隆々の大男に育っていた。 この年の3月、島津と龍造寺が前面衝突する事件が勃発した。「沖田畷の戦い」である。落ち目の大友宗麟を尻目に、九州北部の覇者になりつつあった肥前の龍造寺孝信は、その勢力を南九州にまで広げようと虎視眈々と狙っていた。一方、島津義久は、薩摩、大隅、日向を平定し、勢力を北に伸ばそうとしていた。この両者の激突はもはや避けられない状況になった。 その導火線となった人物は、有馬晴信である。宗麟同様、晴信も熱心なキリスト教信者であり、島原の日野江城の城下には、セミナリヨ(教会)を建設していた。彼は龍造寺隆信の圧迫を受け、イエズス会の支援などによってかろうじて耐え続けていたが、ついに島津義久に支援の要請を行ったのである。
有馬・島津連合軍は、正面衝突では勝ち目がないと判断し、森岳城での籠城戦を放棄し、大軍が自在に展開できない沼沢地に龍造寺軍を誘い込むことにし、「沖田」という泥濘の深田地帯の後方に陣を敷いた。これは島津得意の「釣り野伏せ戦法」である。前の山の麓から海までの約3キロのところに広がる湿地帯には中央部にようやく数人が並んで通行できる畷(田のあぜみち)が一筋延びるだけである。そのあぜ道の正面に頑丈な大城戸を構え、左右には柵をめぐらして龍造寺軍を誘い込み、陣形が細く伸びきったところを挟撃し、一揆に龍造寺隆信の本陣に突撃するという作戦であった。
思わぬ苦戦に、隆信は前身を命じるばかりだったので、悲惨な結果となった。突進を繰り返すたび標的となった龍造寺軍は討ち死する者が続出、後続の兵も泥田に駆け入って突撃しようとするが、胸のあたりまで埋まり、前進はおろか身動きすら困難なありさまであった。隆信の本陣も崩され、最後は川上忠智んい討ち取られてしまう。享年56歳。肥前の熊と恐れられた隆信のあっけない最後である。 この「沖田畷の戦い」は、九州の勢力図を大きく変えた。龍造寺氏の勢力は急速に衰え、島津の勢力が飛躍的に拡大し、その影響は宗茂の大友氏にも及ぶのである。 |