人間・立花宗茂研究 ~宝満山~ |
宝満城を守っていた紹雲の老臣伊藤源右衛門と花田加右衛門は、宋雲院と14歳の直次母子を神楽堂に籠もらせて、上宮目指して攻撃を試みたが、かえって猛烈な反撃を受けて神楽堂まで退却し、防戦一方となった。そこへ岩屋城から救援に駆け付けた屋山中務らの働きによって窮地を脱し、直次母子らはやっとのことで岩屋城に避難することが出来た。これにより宝満城は広門の手に落ち、彼は一族の筑紫四郎右衛門ら3百余人に城を守らせた。
紹雲は、筑前横隈まで来たとき、今村七郎兵衛を斥候として宝満城と岩屋城の状況を偵察に赴かせた。その結果、宝満城は敵の手に落ちたものの、岩屋城は屋山中務が堅固に守っており、直次母子も無事である事が判った。紹雲は立花山に向かう道雪の遺骸と別れ、その日は岩屋城に戻った。立花山では、宗茂以下家臣一同が甲冑の上に喪服をかけて道雪の棺を迎え、翌日岩屋城から高橋紹雲も駆けつけて葬儀が行われ、遺骸は立花山の梅岳寺に埋葬された。 道雪の死去により、19歳の宗茂は名実ともに立花城の城主となった。 |