人間・立花宗茂研究
 ~宝満山~
 


 宝満城の焼き討ち
戸次道雪没後、秋月種実と筑紫広門はそれを好機と捉え、道雪の死の翌日(9月12日)には高橋紹雲の次男高橋直次の守る宝満城の奪取に向けて行動を開始していた。9月13日の夜、広門の武将千手六之丞ら3百余人は修験僧の姿に身を変え、密かに宝満山に侵入した。彼らは上宮で一人の僧を捕えて道案内させ、北東側の峰続きの仏頂山から宝満城に接近し、城中に忍び込んで火を放った。火は折からの強風にあおられて燃え広がり、城中は大混乱となった。火の手の上がるのを見て、広門の武将島田武蔵は和久堂城から、村山近江守は柴田城から出陣して、本導寺や大石付近の高橋方の砦を攻め破って、宝満山を目指して侵攻した。
宝満城を守っていた紹雲の老臣伊藤源右衛門と花田加右衛門は、宋雲院と14歳の直次母子を神楽堂に籠もらせて、上宮目指して攻撃を試みたが、かえって猛烈な反撃を受けて神楽堂まで退却し、防戦一方となった。そこへ岩屋城から救援に駆け付けた屋山中務らの働きによって窮地を脱し、直次母子らはやっとのことで岩屋城に避難することが出来た。これにより宝満城は広門の手に落ち、彼は一族の筑紫四郎右衛門ら3百余人に城を守らせた。
 宗茂、立花城の城主に
北野村で道雪の死に悄然としていた紹雲らは、13日の夜から明け方にかけて北方の宝満山から火の手が上がるのを見て驚き、14日の朝、北野の陣を引き払い、由布雪下と小野和泉を先頭に、自ら殿軍となって棺を守りつつ立花城を目指して行軍を開始した。この時、島津や秋月などの兵は、道雪に哀悼の意を捧げて、遺骸を運ぶ紹雲らをあえて追撃することはしなかった。
紹雲は、筑前横隈まで来たとき、今村七郎兵衛を斥候として宝満城と岩屋城の状況を偵察に赴かせた。その結果、宝満城は敵の手に落ちたものの、岩屋城は屋山中務が堅固に守っており、直次母子も無事である事が判った。紹雲は立花山に向かう道雪の遺骸と別れ、その日は岩屋城に戻った。立花山では、宗茂以下家臣一同が甲冑の上に喪服をかけて道雪の棺を迎え、翌日岩屋城から高橋紹雲も駆けつけて葬儀が行われ、遺骸は立花山の梅岳寺に埋葬された。
道雪の死去により、19歳の宗茂は名実ともに立花城の城主となった。





TOPページへ BACKします