人間・立花宗茂研究 ~道雪の死~ |
宗茂は秋月軍の総攻撃の前日、薦野三河、十時摂津、米多比五郎次郎の3人の武将を呼んで、「秋月の大軍が明日攻撃を仕掛けてくるらしい。道雪公は不在であり、この統虎(宗茂)も若輩ゆえ、敵は油断しておろう。そち達は機先を制して今夜夜討ちをいたせ」と命じた。 だが、薦野三河らは「少兵で大勢の敵に立ち向かうことは危険でございます。この立花城は堅固で、地の利は比類ございません。要所を固めて、待ち戦にする方がよいかと思います」とこぞって反対した。 俺に対し宗茂は怒気を露わにして「そもそも戦いというものは兵の多寡によって決まるものではない。少兵であっても、敵の虚を突けば勝つ。お前たちが行かないというなら直々に出陣致す」と言って立ち上がった。歴戦の重臣たちもそこまで言われたら面目がない。 「それでは我々が出向いて、敵を蹴散らしましょう」と、5百人の兵で香椎の秋月軍に夜襲をかけた。薦野三河、十時摂津、米多比五郎次郎の3人は、5百の兵を3つに分けて音もなく敵陣に近づくと、宗茂の予想通り、秋月勢は明日の総攻撃を前にして完全に油断しきっていた。まず薦野三河以下200人が一斉に斬りかかり、また陣屋に放火した。 秋月種実は4,5百人を集めて正面を防ごうとしたが、米多比五郎次郎以下150人が後方から攻めかかり、村陰に隠れていた十時摂津以下150人も側面から攻撃を仕掛けたので、さしもの秋月軍も防戦困難となり、散り散りになって逃げ去ってしまった。立花勢は300余人を討ち取り、立花城に凱旋した。 種実は宗茂の侮れぬ力量を知って立花城への正面攻撃を諦め、立花城の内部で騒ぎを起こさせようとしたが、これまた宗茂によって察知され、この謀略も未遂に終わってしまった。この後、種実はたびたび立花領内で攻撃を仕掛けたが、その都度宗茂の反撃にあって撃退され、ついに立花城攻撃を諦め秋月に引き上げてしまった。
戸次道雪と高橋紹雲らは、その前に龍造寺勢との決着を図ろうと躍起になって戦うが、決定打を与えるまでことができなかった。そのうちに、龍造寺側の勢力構図が変化してきた。島津氏と通ずるものが続出し始めたのである。龍造寺政家は肥後を放棄して島津の傘下に加わり、筑紫、原田、草野、星野、問注所らの土豪たちも、また秋月種実の画策によって島津に服属し、筑前の宗像、麻生氏も島津の傘下に入った。 このように、龍造寺対大友から、島津対大友に戦いの様相が一変した天正13年の6月初めの頃、道雪が髙良山の陣中で発病した。
道雪は9月11日、73歳で没した。14歳の初陣以来、60年間に37回の大きな戦いと百余回にわたる戦闘を経験したと言われる通り、ひたすら大友家に忠義を尽くして戦い抜いた生涯であった。道雪の死後、家臣たちの間で道雪の遺言に従って遺骸を髙良山に埋めるべきか、立花山に運ぶべきか意見が別れ、また殉死しようとするものなどが出てきて紛糾したが、紹雲は、「立花家の当主は統虎(宗茂)であり、その裁断に従うべきである」と言い、使者を立花山に送った。宗茂は直ちに「敵地に遺骸を置くのは忍び難いので、立花山へ護送すべし」と十時摂津を通じて返事をよこしている。 |