人間・立花宗茂研究
 ~道雪の死~
 


 宗茂の奇襲作戦
築後の久留米方面で激戦が繰り広げられている間、古処山の秋月種実は、19歳の宗茂以下少数の兵で守っている立花城に目を付けた。天正13年(1585)3月、秋月種実以下8千人は立花山の西南約5キロの香椎に陣を構えた。
宗茂は秋月軍の総攻撃の前日、薦野三河、十時摂津、米多比五郎次郎の3人の武将を呼んで、「秋月の大軍が明日攻撃を仕掛けてくるらしい。道雪公は不在であり、この統虎(宗茂)も若輩ゆえ、敵は油断しておろう。そち達は機先を制して今夜夜討ちをいたせ」と命じた。
だが、薦野三河らは「少兵で大勢の敵に立ち向かうことは危険でございます。この立花城は堅固で、地の利は比類ございません。要所を固めて、待ち戦にする方がよいかと思います」とこぞって反対した。
俺に対し宗茂は怒気を露わにして「そもそも戦いというものは兵の多寡によって決まるものではない。少兵であっても、敵の虚を突けば勝つ。お前たちが行かないというなら直々に出陣致す」と言って立ち上がった。歴戦の重臣たちもそこまで言われたら面目がない。
「それでは我々が出向いて、敵を蹴散らしましょう」と、5百人の兵で香椎の秋月軍に夜襲をかけた。薦野三河、十時摂津、米多比五郎次郎の3人は、5百の兵を3つに分けて音もなく敵陣に近づくと、宗茂の予想通り、秋月勢は明日の総攻撃を前にして完全に油断しきっていた。まず薦野三河以下200人が一斉に斬りかかり、また陣屋に放火した。
秋月種実は4,5百人を集めて正面を防ごうとしたが、米多比五郎次郎以下150人が後方から攻めかかり、村陰に隠れていた十時摂津以下150人も側面から攻撃を仕掛けたので、さしもの秋月軍も防戦困難となり、散り散りになって逃げ去ってしまった。立花勢は300余人を討ち取り、立花城に凱旋した。
種実は宗茂の侮れぬ力量を知って立花城への正面攻撃を諦め、立花城の内部で騒ぎを起こさせようとしたが、これまた宗茂によって察知され、この謀略も未遂に終わってしまった。この後、種実はたびたび立花領内で攻撃を仕掛けたが、その都度宗茂の反撃にあって撃退され、ついに立花城攻撃を諦め秋月に引き上げてしまった。
 島津軍が北上する
築後方面で髙良山を中心に大友と龍造寺が攻防を繰り広げていた頃、肥後を手中に収めた薩摩の島津が猛烈な勢いで北進を続けていた。
戸次道雪と高橋紹雲らは、その前に龍造寺勢との決着を図ろうと躍起になって戦うが、決定打を与えるまでことができなかった。そのうちに、龍造寺側の勢力構図が変化してきた。島津氏と通ずるものが続出し始めたのである。龍造寺政家は肥後を放棄して島津の傘下に加わり、筑紫、原田、草野、星野、問注所らの土豪たちも、また秋月種実の画策によって島津に服属し、筑前の宗像、麻生氏も島津の傘下に入った。
このように、龍造寺対大友から、島津対大友に戦いの様相が一変した天正13年の6月初めの頃、道雪が髙良山の陣中で発病した。
 道雪の死去
73歳という高齢の身で、筑後地方を転戦すること1年近く、老いの身にはあまりにも過酷であったのだろう。直ちに医師が呼ばれ、高橋紹雲も自ら看病に当たった。7月から8月にかけて一時快方に向かったが、道雪は紹雲らとともに髙良山を下りて北野村に陣を移したが、9月になって再び症状が悪化した。道雪は重臣の由布雪下と小野和泉を枕元に呼び、「自分の死後、遺骸に甲冑を着せ、柳川の方へ向けて、髙良山に埋めよ」と命じた。道雪は柳川城の攻略に失敗したことを死ぬまで悔やんでいたのである。
道雪は9月11日、73歳で没した。14歳の初陣以来、60年間に37回の大きな戦いと百余回にわたる戦闘を経験したと言われる通り、ひたすら大友家に忠義を尽くして戦い抜いた生涯であった。道雪の死後、家臣たちの間で道雪の遺言に従って遺骸を髙良山に埋めるべきか、立花山に運ぶべきか意見が別れ、また殉死しようとするものなどが出てきて紛糾したが、紹雲は、「立花家の当主は統虎(宗茂)であり、その裁断に従うべきである」と言い、使者を立花山に送った。宗茂は直ちに「敵地に遺骸を置くのは忍び難いので、立花山へ護送すべし」と十時摂津を通じて返事をよこしている。





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