人間・立花宗茂研究
 ~筑後戦線~
 


 筑後へ出動
筑後地方でも龍造寺氏の勢力は急速に衰え始めてきた。これを好機と大友義統は、筑後での失地回復を目指して、実弟の大友親家と親盛兄弟を大将に、約7千の兵で筑後方面へ侵攻させた。天正12年(1584)7月上旬には日田に入り、浮羽郡から耳納山を越えて、筑後の猫尾城に進撃していった。城主の黒木実久は、龍造寺と通じて大友に反旗を翻していたのである。黒木実久は龍造寺の援軍とともに2千の兵で猫尾城と高牟礼城に立てこもって頑強に抵抗したため、1か月経った8月になっても大友軍は城を落とすことができなかった。
しびれを切らして義統は、戸次道雪と高橋紹雲に出動を要請した。8月18日の夜半、道雪らは約5千の兵で出陣する。紹雲の2千が先発で、道雪以下の3千が後陣だった。宗茂は留守を守る。
紹雲と道雪は黒木までの約60キロを強行に突き進み、翌朝には筑後川に到着。筑後川を渡りきったところで敵の秋月種実配下の芥田兵庫の50人の兵と遭遇。紹雲はこれを一兵たりとも残さず討ち取る。その後、石垣という場所で後続の道雪軍と合流し、由布雪下を殿軍にして、耳治山系の鷹取山を越えていった。狭い山道を進んでいくうちに、敵の伏兵が鉄砲などでしきりに攻撃を仕掛けてきた。道雪はこれに応戦するが、敵は樹木の多い山中に隠れており、なかなか仕留めることができない。紹雲は射撃の名手市川平兵衛を呼んで、敵兵が頭を上げるその瞬間をねらって撃つように命じた。平兵衛がその指示通り撃つと、ものの見事に命中。敵兵は山の斜面を転げ落ちていった。それでも伏兵が殿軍の由布雪下らにしつこく攻撃を仕掛けてきたので、道雪配下の立花次郎兵衛、薦野弥助らが応援のために山道を引き返した。薦野弥助が手傷を負うなど激しい斬り合いとなり、道雪は本体を転回させようとした。このとき、参謀の大橋桂林はそれを遮り、朗々と謡曲を歌いつつ悠然と進み、その後いきなり暴れまわったので、敵兵は散り散りに逃げ去ってしまった。
こうして、高橋・戸次軍は敵兵を掃討しながら、19日には黒木の高牟礼城に到着した。老練な紹雲と道雪は翌日、高牟礼城に立てこもる黒木氏の家老椿原式部に対して穏やかに降伏を進めた。式部は24日に城を開き、応援に駆け付けていた龍造寺勢の土肥出雲は城から逃れてしまった。
 筑後の掃討作戦
高橋・戸次軍は猫尾城を孤立させたまま、周辺地域の掃討作戦を実施し、黒木氏と同族の川崎重高が籠っていた犬尾城を攻略し、筑後川を隔てて肥前と接する村々を荒らしまわった。そうしたのち、本格的な猫尾城攻めを開始した。黒木実久以下籠城兵たちは孤立したまま奮戦したが、大友方に寝返った家老の椿原式部の手引きなどによって、9月1日ついに猫尾城は陥落。実久は自刃して果てた。
さらに高橋・戸次軍は、山下城を攻めるため、黒木から南西5キロの禅院村に陣を移した。山下城の城主蒲池鎮運は戦わずして降伏したため、大友氏配下の宗像掃部にここを守らせた。
さらに両軍は下筑後に転じて、坂東寺に陣を取り、谷川城、辺春城、兼松城、山崎城を攻め落とし、大友軍の大将大友親家・親盛兄弟と軍議を開き、西牟田・榎津方面へ進撃し、さらに山門郡内の龍造寺方の城を攻撃した。筑後の名族田尻氏の本拠である鷹尾城は、当時城主であった田尻鑑種・鎮種父子は佐賀へ出向いて留守であり、わずかな守備兵がいただけであった。彼らは大友軍が攻撃するとたちまち城を放棄して逃げ去ってしまった。鷹尾城攻略後、大友軍は南筑後最大の拠点である柳川城の総攻撃を開始した。
 柳川城攻略戦
柳川城は筑後川と矢部川、塩塚川下流のデルタ地帯にあり、水路やで泥沼が縦横に走り、自然の要害を形成し、龍造寺勢の筑後における拠点となっていた。のちに諫早鍋島家の祖となる龍造寺家晴は、数千人の兵とともに柳川城に籠城して、道雪らの門を閉ざしてひたすら守るばかりで波状攻撃にびくともしない。攻めあぐねた大友軍は攻撃を中止し、若干の抑えの兵を残して10月3日に久留米の高良山い移動してしまった。道雪は柳川城の堅固さに驚嘆するとともに、筑後地方の攻略が不完全に終わったことを心底から悔しがった。
高良山城主の良寛と弟の鱗圭は、それぞれ大友方と龍造寺方に別れて争っていた。高良山に陣を移した高橋・戸次両軍は翌日の4日に高良山の東約7キロにある発心山の頂上にある発心岳城に立てこもる草野鎮永らを攻略しようと、まず竹井城を焼き払い、発心岳城を攻略したが、天険の要害で落とすことができない。このため攻撃を断念し、星野、問注所の領内を荒らし、筑後川を渡って秋月領の甘木あたりまで焼き討ちしてその年の暮れ、高良山に戻った。その間、大友軍を率いている大友親家・親盛兄弟は、長期にわたる戦いに倦み疲れ、また道雪と紹雲の武勇だけがもてはやされるのに嫉妬して勝手に豊後に引き上げてしまい、道雪、紹雲らを呆然とさせた。
 小森野の戦い
年が明け天正13年(1585)2月になると、龍造寺家晴は柳川城を出て、中牟田に陣を構え、高良山の南方から大友軍に圧力をかけた。秋月もまた長野、城井らの豊前勢とともに北方の筑前方面から圧力をかけた。4月18日には龍造寺の後藤家信らの8千の兵が鳥栖方面から筑後川を渡って迫ろうとしていた。
それに対し、豊後から遠征してきた大友軍は草野鎮永、長野鎮展、城井重房らを北方の西小田で押さえ、道雪・紹雲の筑後連合軍は後藤家信、筑紫広門の兵と戦うことにした。道雪と紹雲は高良山の西北約4キロ、筑後川と宝満川が合流する小森野あたりに出陣し、戦闘を開始した。龍造寺軍は数の攻めで猛攻を加え、紹雲の本陣近くまで攻め寄せてきた。紹雲は引き付けるだけ引き付けると、萩尾大学など剛の者とともに、真一文字に斬りこみをかけたので、龍造寺軍は一挙に浮足立った。それを見た道雪は兵を転じて北野村に迂回し、龍造寺軍の側面を突いたので、彼らは筑後川を渡って遁走した。道雪はこれを追って鳥栖付近まで攻め立て、数百人の首を討ち取った。この「小森野の戦い」で敗北した龍造寺雲は、龍造寺政家の指揮のもと、約3万余の大軍を高良山付近に集結して大友軍と退陣した。それに対し大友軍は、紹雲ら3千を主力に、道雪の武将小野和泉や由布雪下以下2千を機動部隊として反撃した。紹雲らはまず少数の囮の兵で挑発し、側面から和泉・雪下ら2千の兵が不意打ちで攻撃。龍造寺軍は総崩れとなり、280名ほどが戦死した。龍造寺軍は道雪と紹雲の機略縦横の戦術によってことごとく大友軍に阻止された。両軍は対峙したまま、翌天正14年春まで高良山をめぐる攻防戦は膠着状態となった。





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