人間・立花宗茂研究
 ~初陣~
 


 道雪の婿養子に
天正9年(1581)宗茂は15歳の元服の年を迎え、幼名の千熊丸から統虎と名を改めた。「統」の字は大友宗家の現当主大友義統から一字をとったものである。
宗茂は父高橋紹雲に似て、筋骨隆々の堂々たる体躯の若者に成長していた。宗茂の元服を待ちかねていたように、戸次道雪が宝満城を訪れ、「統虎殿を養子にいただきたい」と紹雲に申し出た。69歳となった道雪にとって、戸次立花家の安泰を守るためには、どうしても宗茂が必要だった。当然紹雲としても、「それだけはご勘弁願いたい」と難色を示した。
道雪は白髪頭の大きな体を曲げて、「大友家のため貴殿と心を合わせて何度も戦ってまいったが、大友家の武運も衰え、それがしも年老いた。それがしが死んだら貴殿と心を合わせて大友家を守るものがいなくなる。貴殿は男子を二人持っておられる。私にはいない。統虎殿をそれがしに下さるよう何卒お願い申し上げる、ひとえに大友家安泰のためでござる」と、一身にかき口説いたので、紹雲もついに承諾した。道雪は人目もはばからず涙を流し、何度も頭を下げて礼を述べたという。
8月18日、宝満城で別れの宴が開かれた。紹雲は宗茂に向かって、「本日より道雪殿がお前の父である。この争乱の世では道雪殿と敵味方になって戦うことがあるかもしれぬ。そのようなときは道雪殿の先陣に立ってこのわしを討ち取れ。道雪殿は卑怯未練なことが大嫌いな人である。もしも離縁されるようなことがあれば、この刀で潔く自害せよ」と、備前長光の剣を与えた。
 誾千代との婚礼
立花城は宝満城の西方約10キロのところにあった。立花城からの迎えの使者原尻宮内とともに、宗茂は世戸口十兵衛と太田久作の二人だけを従えて立花城に向かった。途中、下原村では宗茂に心酔している薦野三河が一行を出迎えた。三河はこのとき39歳であったが、道雪の信任厚い人物だったようで、一時期道雪が誾千代の婿にしようとしたほどの人物である。そのとき、三河は道雪に対して、宗茂を戸次立花家の跡取りにすべきであると強く勧めたという。
立花城では年若い跡継ぎを迎え、三日三晩にわたって祝宴が開かれた。このとき道雪の一人娘の誾千代は13歳であった。色白の美人であったという。しかし、気性が激しく、負けん気が強い性格だった。宗茂は表面的には茫洋としていたが、胸の中には激しい闘志を秘めた若者であった。二人の個性が激しくぶつかり、子宝にも恵まれず、それゆえ先々不仲になってしまうが、この養子縁組の際の二人はまだあどけない少年少女であり、周りの者は立花家の安泰と二人の門出を祝して万歳を叫ぶばかりであった。
大友の勢力は先年の耳川の合戦の大敗で大きく衰退、反大友勢力との攻防が日増しに激化していった。宗茂も安穏としてはいられない。立花城に入って間もなく、宗茂は初めて戦闘に参加した。
 石坂の戦い
筑後国浮羽郡井上城の城主問注所鑑景は、それまで大友方であったが、島津と通じた秋月種実方へ寝返ったため、同族であるが大友氏に対する忠誠心の強い長岩城の城主問注所統景は、豊後へ急使を派遣し、宗麟へ援軍を求めた。そこで宗麟は朽網宗暦に3千の兵を与えて筑後へ差し向けた。宗暦は玖珠郡から日田へ入り、筑後川に沿って浮羽郡に侵入し、井上城を囲んだ。それを聞いた秋月種実は、弟の元種の軍と合わせて6千人で救援に駆け付けた。前後に挟まれた宗暦の軍は、包囲を解いて筑後川を渡り、原鶴で秋月軍と対陣した。
戸次道雪と高橋紹雲は、宗暦を応援するため5千人ほどの兵を率いて原鶴へ向かった。初陣の宗茂もこの中に加わっていた。だが宗暦は、宗麟による英彦山総攻撃に参加するため、豊後に呼び返された後であり、種実らも井上城に篭って戦おうとしない。やむなく道雪と紹雲は引き返すことにしたが、せめて秋月領を荒らして帰ろうと、筑前国嘉麻郡・穂波郡の民家などに放火したり、稲をかりとったりした。敵をおびき出す魂胆もあっただろう。それと知った種実は、家来の井田親之に5千余人の兵を与えて追撃を命じた。道雪と紹雲は穂波郡八木山村の石坂で秋月勢を迎え撃つことにし、この戦いで宗茂の初陣を飾らせることにした。紹雲は坂の途中で弓や鉄砲を構えて秋月兵を正面から迎え撃ち、道雪は千人ほどで松林に隠れて、臨機に応戦することにした。
宗茂は、後見役の有馬伊賀以下150人の兵を与えられ、1500人の紹雲の本隊の後方に布陣させられた。これは戦いの参戦というよりも、護衛に守られて観戦の機会を与えてもらったようなものである。宗茂は初陣の晴れ着として、唐綾縅の鎧に鍬形を打った兜の緒を締め、塗籠の弓を手にしていた。ところが、秋月の軍勢が近づくと、宗茂は栗毛の馬から下り、「敵はすでに近づいてきた。わが兵はこちらへ来い」と、紹雲の本隊から2,300ⅿ離れて陣をとろうとした。
宗茂の思いがけぬ行動に慌てた伊賀が「それはよくありません。敵は多勢で、本隊から離れると危険です。どうか紹雲殿の後方にお備えください」と諫めたが、宗茂は笑って「敵が多勢であるからと言って何ほどのことがあるか。父の本隊とともに備えれば、兵はわしの命令には従わぬではないか」と言った。つまり、本隊と共に行動すれば、自分が預かった兵に対する独自の指揮権を発揮することはできないというのだ。伊賀は「15歳の初陣でこのような豪気なことを申されるのはただものではない。ここは若殿に従おう」と考え、150人の兵を本隊と分けて布陣した。秋月勢は石坂の斜面を黒山のようになって進撃してきた。
 見事な初陣
紹雲は頃合いを見計らって一斉射撃を命じると、秋月の先陣が崩れ、進撃の勢いがやや弱まった。そこで紹雲は300人ほどの先陣に攻撃させた為、秋月の先陣700人はたちまち坂の下に退却したが、代わって秋月の第二陣1000人が紹雲の本隊めがけて反撃を始めた。猛烈な接近戦となり、紹雲も自ら長刀をふるって前後左右の秋月兵と戦った。秋月の後備3000人もまた戦いに参加し、雑兵たちは派手ないでたちの宗茂めがけて攻めかかる。それを防ごうと伊賀は、寄せ来る敵を3人まで切り捨てたが、その身に数か所の傷を受け、額の傷から血が流れて目に入り、動きが鈍くなってきた。そこへ秋月の家人で堀江という武将が高橋勢を斬り伏せながら、伊賀に向かって突進してきた。それを見た宗茂は塗籠の弓に矢をつがえて射ると、矢は堀江の刀の把に当たり左掌に突き刺さった。備前は刀を投げ捨て、宗茂にとびかかってきた。宗茂はそれを受け止め、備前を押し倒して、荻尾大学に命じてその首を取らせた。宗茂の初手柄であった。
乱闘はしばらく続いたが、松林に伏せていた戸次道雪の軍勢1000人の兵士たちが猛烈な反撃を開始したため、戦局が一変し、秋月兵は総崩れとなった。この戦いで、秋月軍の戦死者は760人に対し戸次・高橋軍の戦死者は300人に及んだ。
堂々たる初陣ぶりを見せた宗茂の姿を見て、道雪は大いに喜んだ。





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