大坂へ
 ~故太閤の譜代~
 


 山内家に厚遇されていた毛利父子
毛利勝永は、何故大坂へ入城したのだろうか。
土佐へ配流の身分であっても、その活動はかなり自由であった。もともとは他家へ預けられていた毛利父子の身柄を、山内一豊がわざわざ家康周辺へ願い出て引き取ったという経緯がある。
父壱岐守吉成は高知築城の際、これに意見を加えることもあったという。さらに、吉成の弟権兵衛吉近は山内姓を与えられて家臣として取りたてられていたし、毛利家に仕えていた者たちも山内家へ召し抱えられた者たちが何人もいた。
そのまま土佐に居れば、勝永自身もまた山内家の家臣に迎えられ、それなりの立場を築けたはずであろう。豊臣家との近しさを警戒している徳川幕府にしたところで、豊臣氏を屈服させた後であれば、勝永への警戒心は多少は緩んだであろう。そうなれば、勝永やその子供たちは山内家の重臣に迎えられた可能性が高い。
この点、同じように紀州九度山へ流罪となった真田信繁(幸村)は、浅野家の監視付きで行動の自由も制限されていた。九度山で朽ち果てるしかなかった信繁の境遇よりは、はるかに勝永は恵まれていたはずである。
 太閤の譜代であったという自負
大坂の陣が無ければ、勝永はそのまま土佐の一遇で静かに生活するつもりであっただろう。だが、父吉成から「大坂からお召しがあったら応じるように」と、言い含められていたのだろう。土佐に預けられた後の吉成が、その心中を語る記録は何も残されていない。だが仮に吉成の遺命が無くとも、勝永はその心算を密かに己の胸にしまい込んで、十余年を送っていたと思われる。太閤の譜代であったという自負は、勝永の心中にも十分にしみ込んでいたに違いない。
大坂方の檄に応じて馳せ付けた牢人衆は、大名への返り咲き、武門の意地と言った目標を掲げたものから、やむにやまれず、というものまでおり、様々な事情で入城した。筑前黒田家を退散した後藤又兵衛基次などは、旧主黒田長政によって「奉公構」という措置を取られた為、他家への仕官ができなくなってしまった。関ケ原の合戦という「荒療治」は、大量の牢人を発生させた。家康が開いた江戸幕府は、長くこの牢人問題に頭を悩ますことになる。
 勝永のもとに駆け付けた家臣たち
勝永が大坂に入城したという報は、旧家臣たちの間にも広まった。毛利父子を慕って土佐へやって来た杉五郎兵衛重俊は、勝永の推挙で山内家に仕官し、二百五十石を食んでいた。江戸城普請のため、江戸へ出府していた杉は、大坂の陣と旧主勝永の入城を知った。杉は妻子を寺村淡路に預けて、旧主の下へ駆けつけた。
10月23日、東海道を経由して、家康本隊は二条城に入った。将軍秀忠も10月24日に江戸を発ち、11月10日には伏見に着陣した。家康は11月15日に奈良方面へ出陣した。




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