大坂へ
 ~土佐脱出~
 


 土佐を脱出
毛利勝永は、かねてより八幡帆の船を所有していた。高知城の北にある愛宕神社辺りまで入り込んでいた入海から船を出し、津野崎川を下り、途中家臣の宮田甚之丞、志和又之上らの手引きによって脱出した勝永の息子式辺勝家らと合流、夜半に浦戸より出航した。翌朝、山内康豊はお見舞いと称して使者を久万へ走らせた。勝永の屋敷は静かであったが、普段から毛利屋敷は人がいないが如くに静まり返っていた。なので番人も不審には思っていなかったが、屋敷に勝永らの姿が見えなかった。
土佐を発った勝永の船は、紀伊水道を北上して、紀伊と和泉の境に近い谷川の湊を経て、大坂を目指した。
ようやく勝永の真意が大坂入城にあると覚った山内康豊は、家中に命じて船で後を追わせたが、泉州谷川の湊に入ったところで、一艘の船が大坂の方へ向かったことを突き止めた。
谷川湊は秀吉ゆかりの土地でもあった。文禄の役が始まり、秀吉の御座船が大坂を出航したところ、強い向かい風に阻まれ、これを避けるために谷川湊に入った。折しも、地元の宝珠山理智院の本尊「追風不動」の事を聞き伝えた秀吉が、早速住職に祈祷をさせたところ、たちまち風波がおさまった。秀吉は、御礼として秀吉自身の木像をつくらせ、これを奉納した。一尺二寸余の木像には、秀吉自身の髭が植え付けられているといわれる。同寺の本堂は、慶長10年に秀吉に仕えた桑山重晴が再興させたもので、同寺には秀頼8歳の時の書「豊国大明神」が伝わるなど、豊臣家との関係の深さを窺わせる。
勝永が大坂へ入城する途次、この谷川湊に寄港したのは、単なる偶然なのだろうか。
 山内家も激怒
勝永の大坂籠城は明白となり、知らせを受けた康豊は監視役の山田史郎兵衛を召喚した。山田史郎兵衛は、毛利父子が土佐へお預けになると、これをしたってやって来た。慶長16年(1611)には、山内家から知行4百石を与えられ馬廻りとして仕えることになったが、旧主への思いは一貫して落ち続けていたようだ。山内家でも、山田を信頼して、旧主である毛利父子の監視を委ねていた。
しかし、勝永父子が土佐へ脱出して大坂へ向かったことを知った山内康豊は激怒し、すべてを白状した山田史郎兵衛に切腹を命じたのであった。山田の息子孫七はこの一件により、土佐を退散し、本多美濃守に仕えた。
この時、もう一人の証人である勝永の次男太郎兵衛は座敷牢に監禁された。勝永の後を追いかけるように入城した杉五郎兵衛の妻子なども、横目を付けて厳重な監視下に置かれた。
寛永10年(1633)7月5日付酒井阿波守宛山内忠義書状には、毛利勝永が大坂へ入ったのは、寅年の11月であったと記されている。山内家では、毛利勝永の脱走を本多忠純に届け出、本多からは勝永の証人である太郎兵衛の身柄を急ぎ上方へ移すよう内命が伝えられた。忠義は土佐に残っている実父康豊に太郎兵衛の身柄移送、及び護送船の船の仕立てを懇請した。太郎兵衛の護送船は12月21日に土佐を出航した。
 素性が知られていなかった勝永主従
既に大坂城下は徳川方の情報・流通統制下におかれ、勝永主従は城へ入ることもままならなかったらしい。難儀した結果、開戦ギリギリのタイミングで何とか入城したようだ。
勝永は、自分は豊臣譜代の紛れもない一人である、という自負をもって入城したであろう。だが、勝永の素性は、当時の豊臣家ではあまり知られていなかったようであり、むしろ敵方の徳川勢の方が勝永の事を知っていたほどである。それは山内家からの情報提供によるものでもあったであろう。
だが、かつての同僚である秀頼馬廻りには旧知のものが多く、城内を代表する大野治長とは従兄弟にあたる。勝永を他の牢人衆と区別して、秀頼直臣に復帰させてもおかしくはなかったのだ。




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