毛利家の版図拡張戦略 ~安芸国人毛利家~ |
ところが宝治元年(1247)に三浦泰村の乱がおこり、季光は泰村の軍に加わったため、鎌倉の法華堂で自刃し、その子息たちもこれに殉じたが、ひとり第四子の経光は越後におり、この乱に関与しなかったため、その所領であった越後佐橋荘と安芸吉田荘の地頭職は安堵された。安芸吉田毛利氏の始祖毛利時親は、この経光の次男である。 時親は文永7年(1170)父経光から佐橋荘のうち南条と安芸吉田荘の地頭職を譲り受け、六波羅評定衆となって功績があったので、河内国加賀田郷の地を与えられた。 元弘3年(1333)に鎌倉幕府が滅んだとき、時親は老体を理由に出家し、時親は安芸吉田に移住した。曾孫の元春が郡山に城を築いて事実上の安芸吉田毛利氏の始祖となった。元春の孫の光房は、将軍義教の命で大内持世に従い、九州に転戦している。光房の孫が豊元で、応仁の乱の際最初は東軍に属したが、後に西軍に転じて大内政弘を助けた。豊元の嫡子が弘元で、これが元就の父である。
弘元が多治比猿掛城で亡くなったのは永正3年(1506)正月21日、享年39歳であった。ちなみに弘元という名は、大内政弘の偏諱を受けたものである。 弘元の嫡子興元は8歳の時毛利家の家督を譲られた。興元もまた大内氏に服属し、大内義興の偏諱を受けて興元と称した。 興元は、将軍義稙を奉じた大内義興に従って東上し、各地に転戦したが、永正13年(1513)8月25日、酒害のため病死した。享年24歳であった。興元の後は嫡子の幸松丸がわずか2歳で相続した。 |