毛利家の版図拡張戦略
 ~尼子vs大内~
 


 戦国騒乱の幕開け
中国地方の安芸と備後の戦国時代は、大内政弘の上洛と山名氏の内紛に始まる。
応仁元年(1467)5月10日、大内政弘は安芸を含む8か国の軍勢を率いて山口を立ち、上洛の途に就いた。応仁の乱で西軍山名氏に味方するための出撃であった。
ところが、安芸では国人衆が安芸の旧守護大名武田方と大内方に分かれて抗争していたので、武田方の国人衆はその間隙を衝いて大内方国人衆を攻撃した。
武田氏を首領とする東軍細川方国人衆は、吉川・毛利・福原・宍戸・熊谷・沼田小早川の諸氏で、これに対する西軍山名方国人衆は、周防・長門大内氏配下の厳島神社・阿曽沼・野間・平賀・天野・竹原小早川と能美島・倉橋島・呉・警固屋・蒲刈島など安芸沿岸の海賊衆である。
このころ、安芸の毛利氏は高田郡吉田荘の地頭を世襲する国人衆の一人に過ぎなかったが、旧守護武田氏に従って東軍方であった。だが、この安芸における東西両軍の争いは、大内配下の西軍方がやや優位であったので、東軍から西軍へ寝返る者が多く、当時の毛利家当主の毛利豊元も、大内氏の重臣陶弘護から誘われて、西軍方へ走った。文明3年(1471)の安芸東西両軍最大の合戦であった安芸東西条の合戦で、豊元は西軍へ寝返り、武田軍を攻撃している。
同様にして備後でも東軍方はふるわず、文明3年を過ぎるころから、安芸・備後両国とも西軍の優位が固まり、目立った戦闘はしばらく途絶えている。そして、この応仁の乱における東西両軍の抗争に終止符を打ったのが、安芸・備後国境線上にあった安芸高山城の攻防戦であった。
芸備両国における西軍方は、こうした有利な情勢を背景にして、文明5年(1473)9月30日、沼田小早川氏のこもる高山城へ兵を送って、東軍方の息の根を止めようとした。
攻防は長引き、両軍が対峙したまま一年が過ぎた。文明7年3月になってやっと本格的な戦闘が始まったが、備後国における東軍方の首領山名是豊からの救援はなかった。西軍は依然として包囲を解かず、高山城の籠城も限界に近付いたが、中央では山名持豊(西軍)と細川勝元(東軍)が文明5年に相次いで亡くなり、その後を継いだ山名政豊と細川政元はよく文明6年4月に講和を結んでいたからだ。芸備両国で両軍が戦う意味がなくなっていたのである。
かくして文明7年(1475)4月23日、両軍の間に和議が成立。西軍は高山城の囲みを解いて撤退し、安芸と備後の応仁の乱はようやく終止符が打たれた。
 大内・尼子両氏の葛藤
そのころ、出雲に尼子氏が台頭していた。尼子氏は源頼朝家臣の佐々木定綱の後裔である。寿永の頃、佐々木定綱は源義経に従って戦功をあげたので、石見国の守護に任じられ、その弟義清の子泰清は、出雲・隠岐両国の守護に補された。泰清の曾孫高貞のとき、伯耆の山名氏に滅ぼされたが、足利尊氏に従って軍功のあった佐々木高氏こと京極道誉が貞治5年(1366)8月に出雲国守護となった。道誉の子が高秀で、高秀には高詮は明徳の乱に戦功があり、その時の戦功によって、明徳3年3月に出雲・隠岐の所領を回復した。高詮の弟高久は、祖父の道誉から近江国犬上郡の尼子郷を譲られて尼子氏を称したが、その子持久のとき出雲にくだり、京極氏の守護代として出雲・隠岐両国の国務を執行した。出雲国能義郡富田に月山富田城を築いたのはその子清定である。その勢力は京極氏をしのぐほどであった。その清久の子が尼子経久である。
経久は守護代となってから、美保関の公用銭を横領したり、出雲・隠岐両国の段銭や公役を懈怠したりして、一時京極家から追放処分を受けたらしいが、間もなく実力でこれを回復し、月山城を根拠として次第に諸豪族を征服した。
その後経久は、足利義稙が周防に逃れ、大内義興に擁せられて上洛したとき、他の出雲の諸氏と共に義興に従って京都の各地で戦った。義興は、応仁の乱で西国西軍の旗頭となった大内政弘の嫡子である。
ところが、義稙が将軍に復職すると、今度は近江の六角定頼が前将軍足利義澄の子義晴を奉じて兵をあげたので、経久はこれに与した。山陽側備後の諸国人衆を配下に従え、大内氏勢力下の安芸・石見両国へ進出を企てたのである。すなわち、これが尼子氏と大内氏との対決の始まりであった。
 尼子経久の策動
山陰に根拠を置く尼子氏が山陽側に勢力を伸ばす場合、まず侵略の対象として選んだのは美作と備後・備中・備前の四か国であった。そこには周防の大内氏のような有力な守護家がなく、国人衆たちもどんぐりの背比べといった感じで、侵略に対する強力な防波堤がなかったからである。
これに反して安芸の場合、大内氏という強大な勢力があり、この大内氏が安芸全体に支配権を及ぼしていたのである。そこで尼子氏が、安芸国に勢力を伸ばすためには、いまひとつ頭脳的な作戦を考えねばならなかった。それは、安芸の旧守護家武田氏と結びつくことであった。
この武田氏は、以前は大内氏と肩を並べるほどの守護大名であったが、次第に勢力を失墜してその権威は名のみに過ぎない。安芸の国人領主は武田家の勢威が失われたことをよい事に、一揆契約を結び、共同で旧守護家の権力を跳ね返そうとしている。彼らは寄合で去就を定め、旧守護家の権威を利用しようとはしない。周防の大内氏が安芸に勢力を伸ばしてきたのは、こうした安芸国の内部事情を掴んだうえでの巧妙な分裂工作の結果である。そこで、尼子氏は大内義興が流れ公方足利義稙をかついで京都に上り、10年間も国を留守にしている間隙に乗じ、安芸の旧守護家である武田氏を煽動して、大内氏配下の安芸国内に揺さぶりをかけた。
かくして大内義興の上京不在に乗じて、安芸国内の各地でトラブルが発生する。安芸の陸地部はおろか、瀬戸内の村上水軍などにも策謀の手を伸ばし、それまで大内氏の支配下にあった村上水軍を切り崩して自分の配下に組み込もうとしたほどであった。




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