惜しいかな、後世、真田を云て毛利を云わず
 ~勝永の謎~
 


 勝永の名乗りはなかった?
勝永は、一般的には毛利「勝永」の名乗りで知られているが、実は一次史料でこの諱は確認できない。発給文書もすべて「吉政」と署名している。このあたり、真田信繁が幸村として人口に膾炙しているのと状況がよく似ている。
ただし、勝永の場合は、彼に仕えた杉五郎兵衛の子助左衛門が寛文5年(1665)に書き上げた「毛利豊前守殿一巻」においては「吉永」と記されている。
同書は土佐山内家に伝えられていたが、現在は所在不明となっている。東京大学史料編纂所に影写本が所蔵されている物にも「吉永」となっていたという。影写とは、字句のみを念頭に置いた通常の写しとは異なり、筆・墨・和紙を用い、筆跡をそっくりそのまま、ほぼ一筆で写し取り、筆勢、虫喰・墨の濃淡・にじみ。本紙の輪郭などをそのまま忠実に手作業で再現する特殊技法である。
(東京大学史料編纂所)なので、原本に「吉永」とあったのは間違いなさそうだ。
毛利勝永は、秀吉在世中は「吉政」の実名を用いていたことは確実である。また、吉政→吉永→勝永という名前の変遷を想定した場合、何故助左衛門が「勝永」ではなく「吉永」としたのか、という疑問が湧いてくる。あるいは、吉政と勝永を混同してしまい、「吉永」なる名を記してしまったのかもしれない。
 毛利勝永と真田信繁の相似点
このように、毛利勝永と言う武将は謎だらけで、不明な点も多い。しかし、史料でのその活動がほとんど裏付けられない真田信繁に対して、勝永の場合は、関ケ原合戦以前の事績が史料で散見されるのである。その足跡をたどると、驚くほどの若さで政治の表舞台に登場している。にもかかわらず、勝永の幼名や通称は伝わっていない。かわりに早くから「豊前守」の官名を有しているのが特筆される。これは、秀吉が若き勝永に目をかけていたが故に、元服早々に「毛利豊前守」を称したのではないかと思われる。
真田信繁については、最近の研究によると、豊臣政権下で独自に知行を有する大名閣であったことが明らかにされている。しかし、彼自身が秀吉の政権運営の一翼を担った形跡はない。信繁が、豊臣政権における公的な発給・需給文書にその名が見られないからである。それに比べると、勝永については、秀吉や豊臣家奉行衆の命令を伝える公的な内容の文書にその名が登場する。家督こそ継いではいなかったようだが、まさに豊臣家譜代の大名に相応しい。そして、秀吉死去直後の政局の混迷と、関ケ原合戦がなければ、勝永もまた異なった人物像が後世に伝わることになったであろう。
一方で、信繁と勝永は共通点も多い。そのひとつが、家督を継承していなかった点である。真田信繁の父昌幸は関ケ原合戦当時は54歳であったが、嫡男信幸の存在があった。しかも、本領である信州上田を領する昌幸から、半ば独立するような形で上州沼田を本拠地とした信幸の手前、手元に置いていた次男信繁へ本家の家督を容易に譲れなかったのではないか。
 配所の土佐で過ごす
毛利家の場合は、勝永の父吉成については正確な生年がわかっていない。真田昌幸と同じ慶長16年(1611)に配所で亡くなったときには、60歳前後であったと思われる。しかも、嫡男勝永は慶長5年の関ケ原合戦時には23歳になっており、家督を譲られてもおかしくはなかった。父吉成も40代後半ということで、そろそろ嫡男への家督継承を考えていたのかもしれない。実際、関ケ原合戦には、勝永が豊前小倉の兵を率いて参戦している。しかし、結果的に信繁も勝永も正式に家督を譲られないまま、配所で父の最期を看取っている。
勝永自身も配所で10年余の歳月を過ごした。土佐の領主山内家は、毛利父子に対して手厚い保護を加えていた。父子は、城下やその周辺であれば、ある程度の行動の自由は認められており、城へ伺候することもあった。にもかかわらず、慶長19年、勝永は土佐を脱出し、大坂城へ入った。豊臣家からの招請に応じたのである。
毛利勝永最後の合戦となった大坂夏の陣から400年。勝永の生涯、その父吉成のことも取り上げつつ、勝永の奮戦ぶりなどを紹介していきたい。




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