惜しいかな、後世、真田を云て毛利を云わず
 ~知名度の低さ~
 


 幸村の陰に隠れてしまった
「惜しいかな、後世、真田を云て毛利を云わず」
大坂夏の陣における毛利勝永の戦いぶりを評価する人々の脳裏には、この言葉が浮かぶのではなかろうか。事実、幸村が家康本陣に三度突撃をかけて、家康を狼狽させる前に、徳川方の先陣を切り崩したのは他でもない、この毛利勝永なのだ。
毛利豊前守勝永は、戦国時代末期から江戸時代初頭を生きた武将である。成人した後の大半は流謫の日々を過ごしたが、徳川家康が豊臣家を滅ぼすべく大坂城を攻囲した大坂冬・夏の陣において、戦史に残る働きを見せて消えていった。
江戸時代の随筆「翁草」で、著者神沢貞幹は、勝永を「驍勇天下に敵無るべし」と絶賛し、大坂夏の陣の激闘で、家康本陣に迫った真田信繁(幸村)について「古今独歩は真田信繁」とする一方で、「第二の功毛利勝永たるべし」と記している。これに続く言葉が、冒頭の「惜しいかな、後世・・・」というものである。
神沢貞幹自身は、あくまでも信繁がナンバーワンで、続いて勝永を評価することを明言しているのだが、一般には勝永を信繁と同様か、あるいはそれ以上に置こうとする評価の一例として「惜しいかな、後世・・・」という一文が引用されることが多い。しかし、神沢貞幹の先祖は、毛利勝永の組下で大坂の陣を戦った。そのため勝永に対する思い入れもあって、このような記述がなされたであろうことは想像に難くない。

 福本日南の勝永評
時代はずっと下って大正10年(1921)、「大坂城の七将星」を著したジャーナリスト福本日南も、「真田幸村」に匹敵する武将を挙げるとすれば、「毛利豊前守勝永」であるとし、両名を西南戦争に配置するならば、「幸村は桐野利秋の如く、勝永は篠原国幹に似たるものがある」と評している。勝永と真田を双璧とし、ある意味、神沢以上に勝永を評価している。
これほどの評価が与えられているにもかかわらず、すでに江戸時代の頃から、神沢が嘆く通りに人気・知名度において、真田・毛利の間には大きな差がついていたのだ。
歌舞伎の演目には「近江源氏先陣館」などがあり、「真田幸村」は「佐々木高綱」として登場する。落語には「真田小僧」なる演目があるし、狂歌でも「影武者を銭の数ほど出して見せ」などと詠まれ、真田人気は江戸庶民の娯楽にまで浸透していたことがわかる。
その状況は、現代に至るまで続いているだろう。それは、真田信繁(幸村)に関する評伝や関係書が無数に出版されている状況を見ても明らかである。
一方、勝永の方は知名度において大きく水をあけられている。大坂の陣や真田信繁について調べたり、本を読んだりする過程で、毛利勝永と言う武将を知ったというケースが大方であろう。事実私もその一人である。
 毛利父子の無名ぶり
この真田との知名度の差は、将来、縮まる事はあるかもしれないが、恐らく追いついたり、逆転したりすることはあるまい。毛利勝永やその父吉成の知名度の低さの理由の一つに、「所縁の地元」が存在しないことが挙げられる。実際には所縁の地はあるのだが、それにほとんど気付かれていないか、顕彰の気運に乏しいということのようだ。
恐らく尾張の出自であると思われる勝永の父吉成は、秀吉に従って美濃、近江に活動の場を移し、さらに秀吉の中国攻めが本格化すると、播磨に知行地を与えられていた形跡もある。秀吉に取り立てられ、豊前二郡を領して小倉を居城とする大名にまでなった毛利氏だが、関ケ原合戦の結果、石田方についていたため改易、父子は流罪となる。配流先は、旧知の山内一豊が入部したばかりの土佐であった。
現在、毛利父子に関する資料や史跡は、高知に遺された吉成の墓、勝永屋敷跡、遺品としては勝永の兜、陣羽織、太刀などが山内家に伝わっているに過ぎない。文書は各地に散在していて、しかも多くはない。
毛利父子所縁の地でも、現在ではほとんど忘れられた存在になっており、もっぱら大坂夏の陣における勝永の勇戦ぶりが、合戦の経過説明によって取り上げられる程度である。(NHK大河ドラマ真田丸でも同じような扱いだった)




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