モンゴル民族とは
モンゴル部族の起源

モンゴルという民族がはっきりとした形を取ったのは、1206年のチンギス・ハーン即位以後である。それ以前のモンゴルは、まだ北アジアの遊牧民の部族の一つであって、モンゴル以外にもたくさんの部族があった。それらを全て自分の軍隊のもとに統一して、民族と呼べるようにしたのはチンギス・ハーンである。つまり、チンギス・ハーンがモンゴル民族を作ったのだ。
モンゴルと呼ばれる人々は、7世紀の中頃、はじめて中国の記録に登場する。唐の李世民(太宗)は、630年北アジアを覆った大遊牧帝国の、第一次トルコ帝国(突厥)を滅ぼし、遊牧民の代表によってテングリ・カガン(天可汗)に推挙された。これから50年後、682年に第二次トルコ帝国が興るまで、中国人の知識の範囲は北アジアの隅々まで広がった。モンゴル部族が知られるようになったのもこの頃である。
唐の歴史を伝えた「旧唐書」には、倶輪泊(ホロン・ノール湖)から望建河(アルグン河、アムール河)が出て東に流れ、西室韋、大室韋の界を経て、「蒙兀」室韋の北、落祖室韋の南を経て、東に流れて那河、勿汗河(牡丹江)の合流するとあり、「新唐書」には同じことを、倶輪泊から室建河が出て東に流れるが、河の南に「蒙瓦」部、北に落坦部がある、とある。ここの「蒙兀」「蒙瓦】という部族名は、ともにモンゴルの音訳である。これにより、今の中華人民共和国の内モンゴル自治区の東北部、ロシアとの国境沿いにモンゴル部族が住んでいたことがわかる。
ところで、7世紀にモンゴル部族が歴史に初めて姿を現すよりも1000年以上も前から、北アジアの広大な草原地帯には遊牧民が住んでいて、南に下っては中国に侵入し、西に移動しては、中央アジアを通って北コーカサス、ウクライナ草原に現れ、しばしばヨーロッパを脅かした。13世紀にチンギス・ハーンが建てたモンゴル帝国は、そうした民族大移動の最後にして最大の波である。
ギリシャの「歴史の父」ヘロドトスによると、最古の民族大移動は、紀元前8世紀に起こっている。
このとき、東方からスキュタイ人(スキタイ)という遊牧民族が移動してきて、ウクライナの草原を占領し、先住民のキンメリオ人を追い出した。スキュタイ人自身はさらに東方から移動してきたイッセドネス人に中央アジアの故郷を追い出され、西方に移動してきたのである。そのイッセドネス人自身もさらに東方のアリマスポイ人に故郷を追い出されて、西方に移動してきたのである。アリマスポイ人の彼方には、グリュプスという怪獣が住んでいて、黄金を守護している。グリュプスの彼方には「北の海(バイカル湖)」の岸にヒュペルボレオイ人(北東風の彼方の人)という平和な種族が住んでいる。以上がヘロドトスが伝える話である。
この話によって、モンゴル高原から西へ西へと、中央アジアを通って移動して、ウクライナの草原に達する遊牧民の通路が、前8世紀に既に開けていた事がわかる。



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