三浦氏とは ~鎌倉幕府に確固たる地位~ |
さらに建久3年7月26日、頼朝を征夷大将軍職に任じたことを記す文書「除目聞書」を勅使が鎌倉に持参し、鶴岡八幡宮でこれを受け取っている。義昭が討ち死にする際、自らの命を頼朝に捧げ、子孫の手柄にせんと述べた意気込みが、ここに叶ったものと言えよう。 頼朝は正治元年(1199)正月に急死し、嫡男頼家が後を継いだものの、その後、訴訟の裁許に関する頼家の専断が停止され、北条時政以下13名による合議制の形がとられることとなったが、義澄は和田義盛とともにこの中に加わっていた。義澄は正治2年正月23日に74歳で没し、嫡子義村が後を継いだ。義村は義澄から事実上の相模国守護職の地位を引き継ぎ、また、義澄が没する前後の時期には、梶原景時の告発と追討に当たって中心的な役割を果たした。
建仁2年(1202)8月に、義村の娘が義時の子泰時に嫁ぎ、その翌年には時氏が誕生したこと、また、建保6年(1218)7月には、泰時が侍別当に就任するにあたり、義村が侍所所司に任じられたこと等は、その象徴的な出来事といってよい。さらに、建暦3年(1213)の和田合戦の際、当初は従兄弟の和田義盛に加担する事を約した義村が、一転して義時亭に駆け付け、義盛挙兵の報をもたらすことになった(「吾妻鏡」建暦3年5月2日条)のも、北条氏との協調関係を重視したことの表れではなかろうか。 こうした北条氏との協調関係の結果、幕府内における三浦氏の地位は向上していった。承久元年(1219)11月、義村は駿河守に補任されているが、これは実に承久乱以前においては、源氏一族・北条一門や京下りの官人を除けば、侍身分の鎌倉御家人の中で初めて受領となる栄誉であった。この当時、駿河は関東御分国のうちであり、実質的には鎌倉殿が人事権を掌握していた点、また、元久2年には北条時房が、承久元年には北条泰時が、さらには義村の後任として貞応2年(1223)に北条重時がそれぞれ駿河守に補任されている点などを考慮すれば、義村の駿河守補任は、北条氏との関係の中で実現した事は明らかである。
「愚管抄」は、実朝殺害後の公暁が義村を頼ろうとしたことにつき、義村を鎌倉殿第一の御家人と認識していたからだとし、また、「吾妻鏡」は義村の子息駒若丸(光村)が公暁の門弟であったためとしている。おそらくこうしたことが、公暁が義村を頼ろうとした実際の理由ではなかろうか。 貞応3年6月、義村の長年の「盟友」北条義時が没し、その後、いわゆる「伊賀氏事件」を経て泰時が執権となったが、その後も三浦氏と北条氏との関係には目立った変化は見られず、協調関係が継続していった。泰時の執権就任ののち、大江広元・北条政子が相次いで没し、幕府では世代交代が進んだが、そうしたなか、幕府草創期を知る唯一の存在が義村であった点や、泰時の嫡男時氏にとって、義村は外祖父であったという点も大きかったのだろう。 さらに、泰時を中心とする幕府は、義村らの宿老に相談しつつ政務を運営することを意識し、「合議制」のスタイルを打ち出していったが、義村やその嫡子泰村は幕府評定衆の地位を得、また、北条得宗家の外戚として、その有力な構成員としての地位を確保し、本国の相模以外にも河内・紀伊・土佐の守護職や、全国各地に多くの所領を獲得していった。 |