1・三浦氏の系譜
安房国へ進出する三浦党

    安房国へ進出する
三浦系図では、その多くは安房国の安西氏が三浦氏と同族であるとしている。
三浦氏と同族とされた安西氏は安房郡西部、安東氏は東部、神余氏は同郡神余郷にそれぞれ拠った、安房国の豪族である。古代末期、安西・安東・神余の諸氏と共に同国の豪族として知られるのは、朝夷郡丸御厨の丸氏、同郡沼の沼氏、長狭郡の長狭氏がいる。保元の乱に源義朝の軍勢に加わったのは、安房国の安西・金鞠(余)・沼平太・丸太郎、上総国の上総介広常、下総国の千葉介常胤であった。源氏と房総との関係は、源頼信・頼義父子が平忠常の乱を平定したことに見られるように、このころすでに始まっていた。
安房国丸御厨は、頼義が「東夷平定」の功によって朝廷から最初に賜った地である。義朝は父為義から同地を最初に譲られ、平治元年(1159)に子の頼朝の昇進を祈願して伊勢神宮に寄進した。それが、伊勢神宮領丸御厨の始まりである。治承4年(1180)、石橋山合戦に敗れた源頼義が、相模国の真鶴から安房国へ上陸したとき、丸信俊が案内者となって同御厨を巡見した。頼朝が海路で安房国へ逃れたのは、源氏と深い関係にあったからだとされている。
安房国に上陸した頼朝は、ただちに安西景益に同国の在庁官人(役人)を召集するように命じた。その景益は、頼朝が幼少のころから昵懇の間柄であった。つまり、平治の乱で源氏が敗北する以前から、景益は源氏に仕えていた郎党だったのである。
    安西氏と長狭氏
上陸した頼朝が、まず参拝した州崎明神は同国の名神大社で、今は洲宮神社と呼ばれている。同社神官の家に伝わる「齋部宿禰本系帳」なるものに、夫岐麿が安房郡大領に補任され、以後、その子孫は同郡郡司を世襲したとある。そして景知の子景光は、郡同大領として神余郷に住み、神余家の祖となったという。さらに、安西氏も鎌倉時代を通じて同国郡司であったとしている。頼朝に命ぜられた安西景益が、一族と在庁官人両三の輩を伴って頼朝のもとに参上し、自分の居宅に頼朝を招いた。この事実は、安西氏が同国国衙を掌握していたことを示している。安西氏は、国衙の在庁官人の有力者であったに違いない。
安西・神余・丸氏らに対して、その志が平家にあった長狭常伴は、頼朝を襲撃しようとした。この動きを知った三浦義澄は、同国の同郡の案内者であったので、常伴を攻めて長狭氏を滅ぼした。義澄が同国国郡をよく知っていたわけは、兄義宗の次の事件によくあらわれている。長寛元年(1163)義宗は安房国長狭城を攻めて、39歳で敗死した。この長狭城に拠ったのが常伴であった。
三浦氏が古代末期から対岸の房総と関係を持っていたことは、義明の女が金田頼次に嫁していたことにもみられる。頼次は上総介広常の弟で、頼朝が挙兵したとき、三浦一族と供に石橋山へ向かっている。頼次は上総国長柄郡金田郷を本領とした。
後三年の役で源義家に従った三浦為次の子義次と、その子義明が史料上に出てくるのは、天養元年(1144)の相模国大庭御厨への侵入事件である。源義朝の名代清太夫安行と三浦庄司吉次(義次)・同吉明(義明)、それに中村庄司宗平・和田太郎・同助弘らが、相模国衙の田所目代源頼清と在庁官人らとともに、大庭御厨へ侵入したのである。そのころ、義朝は鎌倉の館に居て上総曹司といわれている。
    上総曹司義朝
義朝が上総曹司と呼ばれたわけは、彼が上総国で育ったためとされている。曽祖父頼義が上総介直方の女を妻とし、その直方から譲られた鎌倉で育ったので、上総介の子孫という意味で上総曹司といわれたという説である。その義朝は、鎌倉で義明の女を妻として嫡子義平をもうけた。永治元年(1141)義朝19歳の頃である。天養年間の事件後の久安2年頃、義平を三浦氏に託して義朝は上洛した。
その鎌倉悪源太義平が、義朝の弟義賢を武蔵国比企郡の大蔵館で殺した。久寿2年(1155)8月16日のことであった。義賢は事件の2年前、仁平3年ころから上野国多胡郡に居住し、養君秩父重隆のもとへ通っていて、この事件に遭った。のち義賢の子木曽義仲は、源氏蜂起の治承4年10月から12月までの間、この多胡庄に在陣した。重隆の叔母は児玉経行に嫁し、その間に生まれた女は義平の乳母であったことから、乳母御前といわれた。
武蔵国の児玉党の祖経行・弘行兄弟は、源義家に従って後三年の役に参加している。このように源氏と関係が深い児玉党の子女が、鎌倉にいた義平の乳母として参上していたのである。その乳母御前の兄弟行重・行高は秩父重綱の養子となり、平姓秩父氏を名乗った。重綱の家督を継いだ養子行重らとの間で家督をめぐって争いがあり、乳母御前の縁で義平に支援を恃んだのがこの事件の発端ではないかという意見もある。





戻る