1・三浦氏の系譜
三浦為通

    相模武士最大勢力
相模国の武士団で、最も重要位置を占めており、なおかつ最大級の勢力を誇ったのが三浦氏である。三浦氏は平良文の子忠通を祖としており、忠通は源頼光の四天王のひとりであった。その忠通の子が鎌倉郡・三浦郡に勢力を伸ばしたのである。「三浦系図」には
忠通の子為通が「この時始めて三浦を号した」とあり、満昌寺(横須賀市矢部)の縁起に、「後冷泉院の頃、康平粘稠に将軍伊代守源頼義が、詔を奉じて安倍貞任を征したとき、為通は頼義公に属して軍功があり、その故に恩賞として、相州三浦を領した」とある。為通は前九年の役に、源頼義に従って戦功をあげ、相模国三浦の地を与えられたというのである。
それ以前、頼義は父頼信に従って平忠常の乱に活躍し、その武功に感じた平直方から鎌倉の地を与えられ、その女を妻とした。実際に為通が頼義に従って前九年の役に参加したかどうかは定かではないが、為通は承保3年(1076)に54歳で死んだというから、前九年の役が起こったのは29才であり、年齢からすれば矛盾は感じられない。「前九年合戦之事」には、安倍頼時の婿平永衛が頼義の軍に加わった時、為通の進言に従って、頼義は永衛を斬ったとある。なので、少なくとも三浦為通が前九年の役に参陣したことが、一般に広く伝えられていたことがわかる。
その子為次が生まれたのは天喜3年(1053)、為通31歳の時である。為次が源義家に従って、後三年の役に参陣しているが、当時すでに為次は三浦を名乗っており、為次もしくは父為通の頃、三浦氏はすでに相模国三浦に土着したことは間違いない。そして源氏の郎党になっていたのである。

    三浦為俊
三浦氏は、為次の兄弟に為俊がいて駿河守を称し、その子に公俊がいるが、彼は藤原公清の実子であったという。公俊が為俊の養子になったことは「尊卑分脈」に公清の子公俊が、「駿河守平為俊の子となす」とあって事実と認められる。
為俊ははじめ千寿丸といい、白河上皇に伺候し、検非違使・左兵衛尉などの官職を得て下総介に任ぜられ、天仁元年(1108)の除目で駿河守に補任されていることから、その存在は事実である。
為俊が白河上皇に仕えたのは、北面の武士としてであった。上皇は身辺警護のために、嘉保2年(1095)はじめて北面の武士を置いたが、為俊はその最初の北面武士に選ばれたのである。
「尊卑分脈」に、為俊は藤原章俊の子になっており、「鳥羽院坊の時に、春宮(東宮=皇太子)の帯刀長」とある。さらに「実子に非ず、勅命によって章俊の養子にした」とある。そのころ小舎人(皇族の護衛の役)の童であったらしい。養父章俊も検非違使を務めている。つまり、武官の経歴の家柄である。
    三浦公俊
為俊の養子になった公俊は、久安3年(1147)、鳥羽法皇の詔を藤原頼長のもとに伝え、さらに法皇の使者として頼長に松茸を届け、仁平元年(1151)に頼長が春日神社に参詣した時は、検非違使として供奉している。公俊の実父公清も検非違使を勤めて、その父公光も同職にあって、のち相模守に任ぜられた。公光の父公行は佐渡守であったが、同じく武者としての動静が伝えられている。
長元4年、公行は欠員となった相模守を申請したが他の者に任命され、同6年に死んだ。このように、公行―公光―公清の家は武官・武者として朝廷につかえた。公清の家督を継いだのは季清で、その孫が有名な歌人となる義清(西行)である。西行の家が兵法を伝えていたことは、文治2年(1186)鎌倉で頼朝にあった時、歌道と弓馬のことを尋ねられたことによくあらわれている。これに対し西行は、弓馬のことは出家したとき「秀郷朝臣以来九代の嫡家相承の兵法」を焼却したので、すべて忘れてしまったと答えている。つまり、為俊の養子となった公俊の実家は、平将門の乱の功労者の藤原秀郷の嫡流であったのだ。





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