領国経営の実力
 ~佐和山入城~
 


 佐和山へはいつ入城したのか
佐和山城の管轄領域は湖北全域に及んでいる。滋賀県では、琵琶湖を中心にして東西南北に分けて「湖北」「湖西」という具合に呼んでいる。ここで言う湖北とは、彦根藩政下では「北筋」と言われた区域で、犬上郡北部、坂田郡、浅井郡、伊香郡の四郡をあらわしている。この四郡が合わせて19万4千石と言われる石田三成の知行地の佐和山城の領域である。
三成がいつ佐和山城へ入ったのか?諸説あり、小田原の陣の天正18年(1590)説や、朝鮮出兵の文禄元年(1592)説もあり、文禄4年(1595)説もある。
ところが、文禄2年10月に足利義氏の息女が関東へ下向したとき、道中宿々の警護申付状に「佐和山石田三成」とあるところから、この時分には佐和山城を預かっていたことになる。となると、文禄2年(1593)までには入城していたということになる。
  佐和山城息子
だが、文禄2年に佐和山へ入ったとしても、三成の日々の用務は多忙で、ゆっくりと領内を管掌している余裕などなかったようだ。朝鮮出兵などで三成は肥前名護屋、あるいは朝鮮へ渡海している時分であった。
佐和山は「沢山」とも書かれており、小谷城の浅井家の家臣磯野丹波守が築いた出城であったが、浅井家滅亡後は秀吉軍団の丹羽長秀や堀秀政、堀尾吉晴が入城していた。
230ⅿほどの小山であるが、「坂田郡志」の記述による「沢山古城聞書抄」によると、「本丸石垣高一丈五尺、其上に五重の天守にて、雨天の時は鯱等も見え申さず高き城に有之候由」とあり、続けて「佐和山見物の踊歌」と題し、  大手のかかりを眺むれば、金の御門に八重の堀、まずは見事なかかりよな
  御門を入りてこの又かかりを眺むれば、八つ棟造りに七見角、まずは見事なかかりよな
とあるので、おおよその見当がうかがい知れる程度である。
この山頂からの眺望は、東から西にかけて中山道が走り、東側は北国道(北国街道)の分岐点を監視するには好都合の土地柄で、西側の眼下には松原内湖が迫り、続く琵琶湖が一望できる湖上交通の諌止場所でもある。
ここに有名な「百問橋」と呼ばれる長い橋を架けて、湖岸の松原へ通じたという伝承がある。現状の遺跡を眺めると天守跡や西の丸、二の丸や三の丸、千貫井戸などの遺構があり、伝承の模様を示す所がある。
  多忙を極める三成息子
このような大事な土地柄を預かった三成が、領内の政治指針を掟書に示したのが入城から3年程度の文禄5年3月朔日である。このときが多忙な三成にとって一時的に時間が取れた時期だった。この頃は明国の使者と接見したり、軍議を重ねたり、湖北を離れて領内の政治は専ら父親の隠岐守正継と兄正澄が代行していた頃である。
したがって、父正継の文書はかなりみられるが、三成の文書はほとんど見当たらない。この時期は朝鮮出兵に従軍するだけではなく、太閤検地の一環として南九州や関東に赴いたり、ほとんど畿内にいたことがない。
また、慶長3年4月6日付などいくつかの奉行連署書状には、本来ならば五奉行全員が連署すべきなのに、三成と浅野長政の2名が欠署となっていたりしている。
何分にも、湖北に定住することなく、大坂に詰めるわけでもなく、東奔西走の日々であった。




TOPページへ BACKします