光秀の謎
 ~信長出仕までの謎~
 


 光秀歴史上のデビュー
明智光秀が初めて確実な資料に現れるのは、信長が上洛して半年余り後の永禄12年(1569)4月のことである。賀茂荘中に宛てて、税と軍役について命令した4月14日付の木下秀吉との連署状がそれである。以後、光秀は京都・畿内の行政担当の一人として活躍するため、光秀の発給文書は頻繁にみられるようになる。
一次史料にこそ出ていないが、ほぼ確かな史料を見ると、光秀のデビューはさらにさかのぼり、その年の1月5日になる。この日、三好三人衆による京都襲撃により、新将軍義昭の仮御所である六条本圀寺が攻められた。本圀寺にはわずかな将軍の親衛隊のほか、美濃衆と若狭衆が将軍を護衛していたのみで、それでも敵軍に対して果敢に戦って将軍を守り抜いた。
そのとき、「信長公記」に乗ったその顔ぶれの中に、「明智十兵衛」がいるのである。このときの光秀の身分を、信長家臣とするか、義昭直臣とするかは判断に難しいが、その後4月から光秀は木下秀吉・丹羽長秀ら信長の家臣と連名で京都と畿内の政務に励んでいるから、信長の家臣として将軍の警護を命じられたものと思われる。
だが、家臣と言っても、光秀は義昭とそれ以前より関係を持っていた可能性が高い。信長家臣の中でも、将軍に最も近い特殊な性格を持っていたのが明智光秀という人物なのである。
 朝倉氏に仕えていた?
光秀は、美濃守護土岐氏の流れである。これは、光秀の死後さほど経過していない時期に書かれた「立入左京亮道隆佐記」に「とき(土岐)の随分衆也」とあるから間違いない。庶流にしても、かなりの家柄だったことになるが、家は光秀の頃には零落し、光秀は若いころから相当の苦労をしていたようだ。
「当代記」には、「一僕の者(たった一人しかいない従者のいない貧しい武士)、朝夕の飲食さえ乏しかりし身」と見え、宣教師のルイス・フロイスの書簡にも「賤しい生まれの人」と書かれている。妻が髪を売って、得た金で客をもてなしたという話は後世の作り話であろうが、貧しい浪人生活を送っていたことはほぼ確かなようだ。
ところで、光秀の経歴については「明智軍記」の記事が良く紹介される。明智城に斎藤義龍軍の攻撃を受けた光秀は、何とか城を脱出して越前へ赴き、鉄砲の技術をもって朝倉義景に召し抱えられる。その後、6年にわたって諸国を見聞。その足跡は北は陸奥から南は薩摩にまで及ぶ。この記述はさすがに信用するに値しないが、朝倉氏に仕えたという経歴は確かである。細川家の家史には、細川藤孝が足利義昭を擁して越前に滞在しているとき、朝倉の家臣だった光秀と親交を結んだことが書かれている。そこには、光秀は義昭を奉じて上洛できる大名は織田信長しかいないと、藤孝に語り、越前を去って信長に仕えた。藤孝はその光秀を頼って信長に会い、義昭の帰洛を願い出る、という筋書きになっている。
実際には義昭が信長に手紙を送って帰洛を依頼したのは3年も前からであり、改めて光秀を頼る必要はなく、この記述も鵜呑みにできないが、光秀がこの頃信長に転仕していたというのは信憑性がある。




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