2・歪曲された三成像 関白秀次失脚事件 |
豊臣秀次を失脚させた? |
関白豊臣秀次は、秀吉の甥であったが、文禄4年(1595)7月秀吉の命で高野山において切腹させられた。さらに翌8月、秀吉の手でその秀次の妻妾、子供まで30数名が京都三条河原で殺されたのである。 秀吉は秀次が酒色にふけって関白の職務を顧みなかったとか、京都の聚楽第の金蔵を勝手に開けて大名たちに金を貸したとか、秀吉に内緒で連判状の提出を求めたとか、取ってつけたような罪状を挙げて秀次を処刑している。 これはまさに、秀吉が秀次の家系すべてを根絶やしにしたことを意味している。秀吉は秀次の家系を完全に抹殺し、自らの後継を実子の秀頼のみとしたことに他ならない。 そもそも、秀吉が甥の秀次に関白職を譲ったのは自分には子供ができないと諦めたからである。しかし、皮肉なことに関白職を譲った翌年、秀吉に実子の秀頼が生まれた。そうなると、実子に関白を継がせたくなるのは当然である。このため、秀吉は秀頼が生まれて3か月もたたないうちに秀次の子と秀頼を結婚させることを定めている。つまり、秀次を秀頼が成人するまでの繋ぎにしようとしたのだ。 しかし、このころから秀吉は病気がちになる。60歳を過ぎ、自らの命に不安を持ち始めたのである。そうなると、秀吉は己が生きているうちに秀頼に関白を譲る筋道をどうしてもつけておきたくなった。しかも、その動きは秀頼の生母淀殿周辺から強まってきた。そして、それは必然的に秀次を排除しようという動きになっていったのである。 しかし、秀次は現役の関白であり、ここで秀吉と対立するようにでもなれば、諸大名に与える影響も少なくない。そこで、三成や細川藤孝などが奔走して、事態を解決に持ち込もうとするが、秀吉の意志は固かった。そして、ついに不幸な事態に発展してしまうのだ。 |
信ぴょう性に乏しい軍記ものによる三成陰謀説 |
この事件に三成が関与したという話は、やはり、江戸時代の書物「石田軍記」「伊達成実記」や「甫庵太閤記」等に出ている。 「伊達成実記」は仙台伊達家の重臣伊達成実が書いたとされる記録であるが、そこには「三成が秀吉の意を察して、秀次の悪行を調べ上げ、ついに秀次や周辺を陥れた」とあり、「甫庵太閤記」には秀次の側近で権勢をふるう木村常陸介重茲を快く思わない三成が、重茲を陥れるために秀次失脚を目論んだとしている。 「伊達成実記」の内容は成実が見聞きしたというより、当時の伝聞や噂を書き留めたものと考えられており、「甫庵太閤記」に至っては最初から三成を悪意を持って描いていることから、信ぴょう性に乏しい。 小和田哲夫氏は、秀次事件について、秀次の関白位への異常な執着心が引き金になって起こった事件で、秀次は秀吉から関白の座を奪われるという恐怖心から心身不安定になって、異常な行動に走り、それをかねてから秀次追い落としを企てていた秀吉がその口実にしたとしている。さらに小和田氏は、秀次が志向しようとした政権が秀吉の構想するものとかけ離れていたことも、その追放につながったのではないかとの見方をとっている。 |
関係者を救済した三成 |
当時、秀吉とは異なるもう一つの勢力が秀次の周囲で形成されようとしていた可能性はある。何より、秀次は現役の関白であり、その影響力が強まっていたとしても不思議ではない。 それは必然的に朝鮮征伐などを強引に推し進めようとする秀吉への批判勢力ともなっていく萌芽を持っていた。また、「殺生関白」などと言われ、後世に評判が悪かった秀次だが、近年では行政手腕などはそれなりに評価され、決して暗愚で残忍な人間ではなく、それなりに実力があった人物だったと評価されるようになった。そういった秀次であれば、秀吉に対するアンチ勢力になる可能性は十分にあった。それゆえ、秀吉はその芽を早いうちに摘み取り、豊臣家の流れを再び一つにして秀頼擁立への確かな道筋をつけておく必要を感じていたとも考えられる。 秀吉は、この事件に関連して秀次と交流のあった伊達政宗や最上義光、細川忠興など有力な大名たちをも処罰しようとした。事実、秀吉は正妻北政所の義弟浅野幸長を連座させ、能登に配流している。このことは彼らの心に豊臣家の行く末に不安を抱かせ、微妙な影を落としていったに違いない。 この事態に救済の手を差し伸べたのが徳川家康であった。そのためか、この事件に関係した大名の多くが後の関ケ原合戦で家康に味方している。 三成も、この事件では被害を最小限に食い止め、関係者を救出すべく奔走している。秀次の家臣であった木村宗左衛門を召し抱えたり、若江八人衆と呼ばれる武士たちをいち早く庇護していることに努めている。 彼らはその後、この時の三成の恩に報いるためであろうか、関ケ原合戦では三成のもとで戦い戦死している。これも三成が首謀者であったなら絶対に考えられない。 |