2・歪曲された三成像 徳川史観 |
「小心者」徳川家康のなせる業 |
徳川家康という人物は、日本史上最強の政権を作った偉人ではある。270年近くに政権を維持し、200年に及ぶ太平の世の礎を築いた本人であるからそれは間違いない。だが、それと同時に、非常に小心者であり、己に敵対したものに対しては、跡形も残したくないという側面も強い。 大坂の陣後に、豊臣秀吉が丹精込めて築いた大坂城を破壊して地下に埋めてしまい、その上に新たな徳川大坂城を築いていることもそうだし、同じく秀吉が造営した京都阿弥陀が峰にあった秀吉の神廟を破壊し、豊国神社に祀られていた秀吉の神号「豊国大明神」をも剥奪しているのだ。 この一連の行動は、佐和山城や石田屋敷の破壊と極めてよく似ている。家康のこれらの行為は、前政権である豊臣政権の完全否定であり、豊臣色の一掃を目指したものであることは間違いない。 また、家康は、関ケ原合戦後に、徳川軍に歯向かい、散々苦しめた真田昌幸の居城上田城を完全に破壊し、堀も埋めてしまい、地上から抹殺している。真田昌幸が家康の嫡男秀忠率いる徳川正規軍3万8千を上田城に迎え討ち、そこで散々に翻弄し、1週間も足止めさせたため、それが原因でこの本軍が関ケ原合戦に間に合わなかった。もっとも信頼する本軍が最後まで到着しなかったため、家康は関が原の現場で薄氷を踏む思いで、ようやく勝利をつかんだのである。そういう意味で真田昌幸と上田城は、家康にとっては怨敵ともいえる存在で、それが故の真田の紀州九度山への配流と居城の完全破壊にまでつなげたのであろう。 三成は関が原で家康を最後の最後まで追い詰めた真田以上の存在であるから、その居城や屋敷が勝者家康の手で破壊・抹殺されるのは当然で、それは敗者の宿命というものであろうが、それにしてもここまで小心者でないと、天下を長く維持できないものなのかもしれない。 |
勝者による歴史の書き換え |
270年に及び日本を統治した徳川家にとって、その神ともいうべき家康を亡き者にしようとした人物である石田三成が、歴史は勝者によって書き換えられるという点から考えても、後世、よく言われるはずがない。 三成は、江戸時代を通じてすこぶる評判が悪かった。というより、悪くさせられたといった方が正解だ。そもそも、歴史の上で悪く言われる人物は、本当に誰が見ても悪かった場合もあるが、それ以上に政治的な理由で悪者にされてしまったケースの方が多い。そしてその人物が本当に悪者だったかどうかは、その人物に関する史料が時の権力者の手で抹殺されている場合が多く、史実かどうかは実に分かりづらいものである。 石田三成はまさにその典型であろう。徳川時代に書かれた記録には、三成の行動や人物を誹謗し、矮小な人物として描いているものが実に多い。それも故意にケチをつけたものが大部分だという。これは三成が徳川将軍家の開祖・東照大権現(家康)のライバルだったからだ。仮に、関ケ原合戦で家康が三成に敗北したとしたら、徳川将軍家の存在そのものも、徳川時代の歴史も水泡に帰したに違いないからである。徳川全盛期の御用学者が寄ってたかって三成を悪くいい、その屍に鞭打ったのも当然なのかもしれない。 |
後世まで悪人とされた三成 |
三成へのバッシングは、江戸時代270年を通じて行われてきたという長い歴史を持っている。三成はその間悪人というレッテルをずっと張り続けられてきたのである。そしてそれは、現在もまだ残っている価値観でもある。 その人物に対する正当な評価につながる史料を抹殺し、その後で一方的に悪者の情報を流せば、悪人は簡単にでっちあげることができる。それはまさしく歴史の勝者による情報操作の常套手段である。三成はその情報操作によって悪人にされてきた一人である。 三成が江戸時代を通じていかに悪人にされてきたかと言えば、幕末のもっとも著名な詩人、歴史家であった頼山陽の「日本外史」においても、三成が関白豊臣秀次事件の黒幕であったとか、会津の大名蒲生氏郷を毒殺したことなど記されていることからもわかる。頼山陽は江戸時代最高レベルの教養人であり、この彼でさえ巷説を信じ三成をそう見ていたという事実である。 さらに、江戸時代のベストセラーであった「太閤記」の作者である小瀬甫庵も石田三成の事を「考えてみれば、おおかた悪人は知恵が深く才能あるものである」と誹謗している。 こんな三成の名誉回復を、私なりにはかっていきたいと思う。 |