素顔の石田三成 ~蒲生氏郷毒殺に関与?~ |
まず、蒲生氏郷急死事件についてみると、当時会津若松92万石の大大名であった氏郷は、文禄4年(1595)2月7日、40歳の若さで急死しており、これは事実である。 江戸時代に著された「石田軍記」や「蒲生盛衰記」などには、これは軍略、人物において優れた蒲生氏郷が将来必ず秀吉の天下を脅かすと考えた三成が、氏郷に密かに毒を盛って暗殺したのだと、まことしやかに書かれている。 氏郷の病死の経緯は次の通りである。当時、氏郷は朝鮮に渡るために待機していた肥前名護屋の陣地内で血を吐き、それ以来体調を崩して痩せ衰え、顔が黄色くなり、目の下には腫れものもできるようになった。 心配した秀吉は、当時名医の評判が高かった曲直瀬道三らに治療に当たらせたが、彼らは「難治の証」と診断した。つまり、どうにもならない、手の付けられない症状だというのである。そして数か月後の文禄4年2月7日、氏郷は京都で40歳の若さで亡くなったのである。 この氏郷の死に大きくかかわったのが三成だというのだが、三成が仮に毒を盛ろうにも、この時期彼は朝鮮に渡っており、氏郷に毒を盛れるはずがなかった。だが、三成が直接手を下さなくても、配下の誰かに毒を盛る事ができるではないか、と思う向きもある。だが、氏郷の死は毒殺によるものではないことが明らかにされているのだ。
それを診断したのが先の曲直瀬道三であり、さらに道三の他に9人の医者も関わっていることから、その信憑性は極めて高いといえる。 これらの記録から、氏郷は癌、それも膵臓癌もしくは直腸癌だと推定されるという。氏郷の死は明らかに病死であった。
もし、三成が氏郷を殺した首謀者であるならば、彼らは主君の仇ともいうべき三成に仕えたりするであろうか?絶対に仕えたりはしなかったに違いない。 しかも、蒲生郷舎などは、その後、島左近と並ぶ三成の重臣として、関ケ原の合戦でも最後の最後まで三成とともに戦っている。ここで蒲生郷舎は新たな主君である三成に最後まで命を捧げたともいえる行動をとっているのである。 |