素顔の石田三成 ~勝者による歴史の書き換え~ |
この一連の行動は、佐和山城や石田屋敷の破壊と同様と思われる。家康のこの行為は、前政権である豊臣政権の完全否定であり、豊臣色の一掃を目指したものである事は間違いない。 同様に家康は、関ケ原合戦後に、徳川軍をさんざん翻弄した真田昌幸の居城上田城を完全に破壊し、堀も埋めてしまい、地上から抹殺している。家康の嫡男秀忠率いる徳川本軍3万8千が上田城を攻略できず、それが原因で本軍は関ケ原本戦に間に合わず、家康は関ケ原の現場で薄氷を踏む思いで戦い、やっと勝利をつかんだのだ。そういう意味においては、真田昌幸と上田城は家康にとって怨敵であり、真田の紀州九度山への配流と居城の完全破壊にまでつながったのだろう。 そう考えると、三成も関ケ原では家康を最後の最後まで追い詰めた真田以上の存在である事から、その居城や屋敷が歴史の勝者家康の手で破壊・抹殺されるのは当然で、それは敗者の宿命と言えるのかもしれない。
三成は徳川家にとって、その神ともいうべき家康を亡き者にしようとした人物であり、歴史は勝者に都合よく書き換えられるということから考えても、後世良く言われるはずなどない。 そのため、三成は江戸時代を通じてすこぶる評判が悪かった。というより、悪くさせられたといったほうが正解であろう。だいたい、歴史上で悪く言われる人物には二通りあり、本当に誰が見ても徹底的に悪かったか、それとも、政治的な理由で悪者にされてしまったか、そのどちらかである場合が多い。後者の場合、本当に悪人だったのか、それとも悪人に仕立て上げられたのかが実にわかりにくい。というのは、その人物に関する史料が時の権力者の手で抹殺される場合が多いからである。 石田三成も後者の一人であろう。歴史学者の桑田忠親氏は「歴史はあくまでも勝者からの視点で書かれたものであり、徳川時代に書かれた記録には三成の行動や人物を誹謗したものが実に多い。故意にケチをつけたものがその大部分を占めている。これは三成が徳川将軍家の開祖・東照大権現(家康)のライバルだったからだ。仮に、関ケ原合戦で家康が三成に敗北したと仮定すれば、徳川将軍家の存在そのものも、徳川時代の歴史も水泡に帰したに違いないからである。徳川前世紀の御用学者が寄ってたかって、三成の悪口を書き、その屍に鞭打ったのも当然とうなずけるだろう」と述べている。
その人物に対する正当な評価につながる史料を抹殺し、その後で一方的に悪意の情報を流せば、悪人は簡単にでっちあげられる。それはまさしく歴史の勝者による情報操作の常套手段である。そして、いつなりもその情報操作によって悪人にされてきた一人であるといえる。 三成が江戸時代を通じていかに悪人にされてきたかといえば、幕末のもっとも著名な詩人、歴史家であった頼山陽の「日本外史」においても、三成が関白豊臣秀次事件の黒幕であったとか、会津の大名蒲生氏郷を毒殺したなどと記されていることからもわかる。これは三成が幕末まで悪人とされてきたことを示しているが、もっと深刻なのは、頼山陽ほどの教養人でさえ巷説を信じ三成をそう見ていたという事実である。 さらに、江戸時代のベストセラーであった「太閤記」の作者である小瀬甫庵も、石田三成の事を「考えてみれば、おおかた悪人は知恵が深く才能あるものである」と誹謗している。 |