誤解された三成 三成像の歪曲 |
この一連の行動は、関ケ原戦後の敗れた石田三成の佐和山城や石田屋敷の破壊と酷似している。家康のこの行為は、前政権である豊臣政権の完全否定であり、豊臣色の一掃を目指したものである事は間違いない。 真田昌幸は家康の後継者である秀忠率いる徳川本隊3万8千の大軍を上田城に迎え撃ち、そこで散々翻弄し、1週間も足止めをさせて、それが原因で徳川本軍が関ケ原合戦に間に合わず戦に参加できなくなってしまった。このため、家康の最も信頼する本隊ともいうべき大軍が最後まで到着せず、家康は関ケ原の現場で薄氷を踏む思いで戦い、やって勝利をつかんだのだ。そういう意味において真田昌幸と上田城は家康にとってまさに怨敵ともいうべき存在であり、それが真田の紀州九度山への配流と居城の完全破壊にまでつながっていったのであろう。 そう考えると、三成は関ケ原本戦で家康を最後の最後まで追い詰めた真田以上の存在である事から、その居城や屋敷が歴史の勝者家康の手で破壊・抹殺されるのは当然で、それは配所の宿命ともいえよう。
三成はその徳川家にとって、その神ともいうべき「神君家康」を亡きものにしようとした人物であり、歴史は勝者に都合よく書き換えられるということから考えても、後世よく言われるはずがない。 そのため、三成は江戸時代を通じて評判が悪かった。というより、悪くさせられたといったほうが正解であろう。歴史学者の桑田忠親氏は「歴史はあくまでも勝者からの視点で書かれたものであり、徳川時代に書かれた記録には三成の行動や人物を誹謗したものが甚だ多い。故意にケチをつけたものがその大部分を占めている。これは三成が徳川将軍家の開祖・東照大権現(家康)のライバルであったからだ。かりに、関ケ原合戦で家康が三成に敗北したと仮定すれば、徳川将軍家の存在自体も、徳川時代の歴史も水泡に帰したに違いないからである。徳川全盛期の御用学者が寄ってたかって、三成の悪口を叩き、その屍に鞭うったのも当然とうなずけるだろう」と述べている。
その人物に対する正当な評価につながる史料を抹殺し、その後で一方的に悪いの情報を流せば、悪人は簡単にでっちあげることができる。それはまさしく歴史の勝者による情報操作の常套手段である。そして、三成もその情報操作によって悪人にされてきた一人であるといえよう。 三成が江戸時代を通じていかに悪人にされてきたかといえば、幕末の著名な詩人、歴史家であった頼山陽の「日本外史」においても、三成が関白豊臣秀次事件の黒幕であったとか、会津の大名蒲生氏郷を毒殺したなどと記されていることなどからもわかる。これは三成が幕末まで悪人とされてきたことを示すが、深刻なのは、頼山陽ほどの教養人でさえ、巷説を信じ三成をそう見ていたという事実である。 さらに、江戸時代のベストセラーであった「太閤記」の作者である小瀬甫庵も石田三成の事を「考えてみれば、おおかた悪人は知恵が深く才能あるものである」と誹謗している。 |