三成の後世の評価
 ~家康の陰謀に翻弄~
 


 関ケ原戦後の東軍諸将の腹
石田三成が慶長5年(1600)9月、七条河原の刑場で斬首されてから、わずか15年で大坂城は落ち、豊臣家は三成が恐れていたように滅亡してしまった。このとき、太閤恩顧の大名は誰一人として太閤の恩に報わんとして立ち上がった者はいない。豊臣家の姻戚であった木下家などですら、冷酷に秀頼を見捨てて、自己の安全と栄達に汲々としていた有様である。人情の希薄なこと、人心の頼み難いことは、人の世の常とは言いながらも、これはあまりにも寂しすぎる。徳川幕府滅亡当時にも雪雪崩状態で薩長側につく大名がことごとく続出したが、それでもまだ旧幕府に殉じて戦おうとする者は数多くいた。それに比べても、豊臣家滅亡へのレクイエムのそれは、あまりに悲しすぎる。三成が関ケ原戦役を起こし、あえて徳川家康に挑戦した心境はいかばかりであっただろうか。
いわゆる太閤恩顧の諸将が、関ケ原戦役で徳川方に加担した際には、それが秀頼に対する反逆、秀吉に対する忘恩といわれはしないかと、大いに世間体を気にし、或いは良心に咎めたのであるが、大坂の秀頼を粗略に扱わないとの言葉を得たとき、心の重荷がようやく軽くなったとばかり欣喜した。
関ケ原戦後、豊臣恩顧の将の一人浅野長政が、秀頼を大坂から追い出し、代わって家康が大坂に入って号令すべきだと提言したが、これに対して家康は、今度のことは石田三成の野望から出たことで、三成を退治したからには、いよいよ秀頼の後見をしたいと答えた。さらに、自分の孫娘を秀頼に滅入らせたいと言うと、太閤恩顧の諸将は涙を流してありがたり、この上は家康を太閤同様に思い、主君と仰いで忠勤を励みたいと限りなく喜んだという。
家康の孫娘を秀頼に嫁がせることは、秀頼の遺言であり、今さら家康が恩着せがましく言ったのは、もはや天下の権は家康の手中にあり、秀頼を生かすも殺すも、家康の胸三寸であったからである。
  家康の思惑息子
家康は、秀頼を尊重すると言いながらも、豊臣氏が全国に所有していた約200万石の直轄地を、いとも当然の如く収奪した。その多くは没落した西軍諸将が、代官地として預かっていたものである。その結果、豊臣氏の直轄地は、摂津・河内・和泉のうちで約65万石になってしまった。
そして家康は、論功行賞に名を借りて、まず自己の直轄地を、従来の約250万石から約400万石に増加させた。また、主要な都市である京都、伏見、奈良、大津、堺、長崎や、重要な鉱山を抑えた。さらに、徳川一門の諸将を大名に取り立て、その数は68家約260万石の藩屏を作った。
その反面、外様の太閤恩顧の諸将は敬して遠ざけられた。領地は倍増以上の大盤振る舞いになったが、要地からはことごとく締め出し、僻遠の地に分散させた。しかし彼ら太閤恩顧の大名らは、ただ一戦で領地が大いに加増されたことで満足し、脆くも家康に懐柔されてしまった。
しかし家康は油断しなかった。なお秀吉の御恩というものが彼らの中にいくらか残っており、しかも秀頼が大坂に籠っている以上、少しは彼らに気兼ねしなければならない。(これが、徳川政権の行方に大きく影響するのだが)そこで、彼らが東軍に加担した名分を、とにかく飾ってやることが、何よりも彼らを宥めることになるのを知っていて、秀頼を貢献するが如き、心にもないそぶりを見せて、一時を糊塗したのである。
家康が真に秀頼を後見するつもりであれば、その実力と声望からいって、何の造作もなかったであろう。それが口から出まかせであったが故に、そのすぐ後に新しく江戸に幕府を立て、ここに文武の大権を集中し、盤石の徳川体制を造ることを望んだのである。その眼中に太閤の遺詫など微塵もないことは、これに基づく政略が仮借なく施行されていったことでもわかる。結局、太閤恩顧の諸大名は、新しい秩序の動かしがたいことを悟り、もはや徳川家に忠勤を励むことで家を保つしかないと考えたのである。
  陰謀と我欲に立ち向かった三成息子
太閤恩顧の諸将が、関ケ原戦役で家康に加担した理由は、石田三成らと不仲であったこと、家康に新たな恩を蒙っていたこと、家康が比類ない有力者であったことや、行きがかり上、成り行きに従ったことや、色々な事情があっただろうが、決定的な理由は、この機会に功名を望んで、より多くの領土を獲得して、家を興したいということであっただろう。彼らが戦役後、大坂の秀頼のことを少しばかり心配した口ぶりは、やや体裁を繕ったということだけであって、それ以上のものはなかったであろう。
家康もそれを知っていて、彼らの強欲を巧みに利用し、大いに新恩を施した。諸将はこの一戦に一躍して、従来の領土の2倍、3倍のものを獲得したから、彼らが逝ける秀吉より、眼前の家康を有り難く思い、東軍に加担したことをつくづく果報と考えた。家康が浅野長政などに対し、大坂の秀頼を大切にするといったのは、決して秀頼に対する好意でもなければ、太閤との約束を重んじたわけでもない。諸将が戦役の興奮から冷めやらぬとき、しばらく彼らの心を宥める必要があったので、既に豊臣氏の直轄地200万石を収奪し、諸大名の新配置を終え、幕府を立て局面一変した以上は、もはや爪牙を包み隠す必要はなかった。
それが証拠に、大坂の役は、これを仕掛けた家康には仁義のかけらもない。方広寺の大仏の鐘銘に言いがかりをつけたのは、悪徳弁護士よりもあくどく、冬の陣の講和で内堀まで埋めたのは、高利貸しの取立よりもえげつない。家康の腹黒さは、今に始まったことではないが、それでも関ケ原戦役まではまだ何とか取り繕う口実があった。しかし大坂の役に際しては、化けの皮が悉く剥げてしまい、悪党の本性を丸出しにした。この時においても、太閤恩顧の諸大名はこれを見て見ぬふりをし、誰一人として家康に抗議はおろか、これを牽制しようとした者さえいなかった。
つまり、太閤没後17年、関ケ原戦後15年にして、太閤の遺詫に誰一人として応えようとした、情けをかけた大名がいなかったのである。しかも秀頼が抹殺されるのを、唯々諾々として手伝ったのである。ここにおいて、三成がかつて精魂をかけて家康に立ち向かい、天下分け目の戦いを仕掛けたのを、時宜を知らなかったため、ということはできまい。三成には正義感が強く、剛腹で、潔癖に過ぎるという、偏った性格はあったかもしれないが、それだけ純粋で、太閤の厚恩を肝に銘じていたからこそ、太閤のぬくもりが諸大名の間に未だ醒めやらぬ時期に、思い切って大事を決行したのであろう。




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