台湾民政長官
 ~生物学の原理
 


 自治・慣習の重視を
後藤は、初期台湾統治の失敗の原因について、どのように考えていたのであろうか。一言で言えば、慣習の無視ないし軽視が根本的な誤りであると考えていた。民政長官就任前に著した「台湾統治救急案」(明治31年1月25日)に於いて後藤は、「台湾行政中最も改良を要する重なるもの如何を問わば、従来同島に存在せし所の自治行政の慣習を回復するが如きは、蓋し其急務中の急務なるものならん」と述べ、さらに次のように論じている。
台湾は「化外の民」として清国政府から放任されていたが、むしろそれゆえに、かえって実は非常な発達を遂げている。この「自治制の慣習」こそ、台湾における「一種の民法」である。それなのにこれまでの当局者は、軽率にもこうした自治の制度を破壊し、盛んに新たな法令を発して外観を整え、一件文明的な制度を一挙に導入しようとしてきた。これが失敗の根源である。今後の方針は、旧慣を復活させ、総督府は監督者の立場に立ち、弊害がある場合にのみ徐々にこれを改良していくこととすべきである。そうすれば行政も簡単になり、効果もはるかに挙がるだろう。これが後藤の立場であった。
この方針を後藤は児玉に説き、その同意を得た。そして台湾赴任直後に児玉が予定していた統治方針の声明を中止させた。統治は生物学の原理、すなわち慣習の重視によって行わなければならない、これを充分研究することなしに、概念的な施政方針を述べても仕方がないと後藤は考えたのである。
 生物学の原則の重視
この「生物学の原則」は、すでに衛生局時代に見られたものであって、後藤の思想の奥深く根差したものであった。後年後藤はしばしば次のように語り、台湾統治の成功の最大の秘訣は「生物学の原則」によるものだと強調した。
「ヒラメの眼を鯛の眼にすることはできない。鯛の眼はちゃんと頭の両方についているが、ヒラメの眼は頭の一方についている。それが可笑しいからと言って、鯛の眼のように両方に付け替えることはできない。ヒラメの眼が一方に二つ付いているのは、生物学じょうその必要があってついているのだ。それをすべて目は頭の両側につけなければならないと言っても、そうはいかないものである。政治にもこれが大切だ。」
「社会の習慣とか制度というものは、皆相当の理由があって、永い間の必要から生まれてきているものだ。その理由を考えずに無闇に未開国に文明国の制度を実施しようとするのは、文明国の虐政というものだ。そういうことをしてはならない。」
「だから我輩は台湾を統治するときに、まずこの島の旧慣制度をよく科学的に調査して、その民情に応ずるように政治をしたのだ。これを理解しないで、日本内地の法制をいきなり台湾に輸入実施しようとする奴等は、ヒラメの眼をいきなり鯛の眼に替えようとする奴等で、本当の政治という物をわからん奴等だ」
このような現地慣習の尊重は、今日の眼からすると不思議ではないが、「文明」に対する「野蛮」を見下す態度の強かった当時においては、やはり抜きんでた卓見であったというべきである。
 台湾旧慣調査事業
後藤はこの慣習の尊重を徹底するため、大規模な調査事業を開始することとした。すなわち後藤は、明治33年(1900)京都帝国大学教授の岡松参太郎を招き、後藤自身が会長となって翌34年に臨時台湾旧慣調査会を発足させた。これにはさらに明治36年、やはり京都帝国大学教授の織田萬が加わった。その成果には、「臨時台湾旧慣調査会第一部調査第一回報告」全三冊「同第二回報告」全四冊、「臨時台湾旧慣調査会第二部調査経済資料調査報告」全二冊、「台湾私法」全十三冊、「清国行政法」全七冊などがある。
このうち織田萬が著した「清国行政法」は、近代中国外交史の碩学によって「申告制度の包括的で体系的な研究として空前絶後というべきもの」と評価されている。こうした評価は、その他の成果についてもほぼ妥当するようである。
元来は政治的な目的から開始された事業であったが、調査には学術的な方法が貫かれ、強力なバックアップによって後世に残る文化事業が成立したのである。研究対象の膨大さと複雑さにいささかためらった織田に対し、後藤は、世界の文化の為になる事であり、日本人にしかできない大事業だからと言って説得したといわれる。つまりこれらは、後藤にとっても単なる政治的な事業ではなかった。世界の文化に貢献し得ることそれ自体に、彼は大きな喜びを感じていたのであろう。




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