明治31年(1898)3月、後藤は台湾総督府民政局長に起用された。この地位は、同年6月の官制改革によって、民政長官という名称に変わった。台湾総督に次ぐ地位である。以後明治39年11月に満鉄総裁に就任するまで、後藤は8年8カ月この地位にとどまり、台湾統治に大きな業績を上げることになる。
後藤を起用したのは、第四代総督に就任した児玉源太郎であった。日清戦後検疫事業において後藤の辣腕に強い印象を受けた児玉は、明治39年4月参謀総長に就任するまで、8年あまりにわたって後藤を深く信頼し、自由のその手腕を振るわせた。この間児玉は台湾総督でありながら、内閣に列して陸軍大臣・内務大臣・文部大臣のポストを兼任し、日露戦争当時においては、参謀次長・満州軍総参謀長・参謀次長事務取扱として陸軍大臣の事実上の最高指導者の役割を果たした。児玉がそうした激職・激務にあった間、特に日露戦時においては、後藤が事実上の台湾総督であった。
児玉の後の第五代総督になった陸軍大将の佐久間左馬太も後藤を民政長官に留任させたが、その後半年ほどで後藤は満鉄総裁となって台湾を離れた。しかし、その後も台湾総督府顧問の職を新設して、後藤にこれを兼ねさせた。いかに後藤の存在が大きなものとなっていたかがわかる。約50年間の日本の台湾統治において、五党以上に大きな影響を及ぼした人物は他にいなかったといってよい。
後藤を民政局長に起用しようとしたのは児玉だけではない。明治31年1月に第三次内閣を組織したばかりの伊藤博文は、後藤を招いて民政局長となるよう勧めている。後藤はかつて伊藤に対し、清国賠償金を利用した社会政策の開始を力説したことがあり、この時以来、伊藤は後藤に注目していた。
また、新内閣の陸軍大臣・桂太郎も後藤を起用しようという意見であった。桂は29年6月から10月まで、わずか4カ月ながら第二代台湾総督に就任したが、その時にも台湾衛生院を設立し、総裁に後藤を起用しようとしたことがあった。この明治31年当時の時点では、前台湾総督であった乃木の失敗は明らかとなっており、後藤を民政局長に起用して挽回を図る事が、伊藤や桂、そしておそらく児玉を含めて合意されていたのだろう。乃木が辞職することとなった為、児玉―後藤コンビの誕生となったのであるが、後藤の起用はむしろ児玉総督の決定の前から内定していたようである。
台湾の統治はその当時どのような状況にあったのだろうか。台湾は日清戦争講和条約(下関条約)の結果、日本に割譲されたから、法的には明治28年5月の同条約の批准発効によって日本に帰属することになった。しかしそれは決して平和裡に実現されたものではなかった。日本領となることを好まない住民は、一次はアジア最初の民主国たる台湾民主国の成立を宣言して抵抗した。5月末に上陸した日本軍は、6月台北に入城して始政式を行ったが、中南部では激しい抵抗に遭遇し、漸く11月になって大本営に全島平定と報告することができた。ところがその直後にまた大規模な反乱が起こったりしたため、大本営が解散したのは29年5月であった。したがって、初代総督・樺山資紀の時期の総督府は、ともかく平定に明け暮れていた。次の二代総督の桂太郎は、国内政局との関係でわずか4カ月で辞任し、台湾にいたのは10日ほどであった。第三代総督には乃木希典が就任していたが、依然として抗日ゲリラの問題を解決するに至らなかった。乃木の場合には、本人の実力にも問題があり、さらに民政局長の能力にも問題があった。つまり、児玉・後藤時代以前には、治安の維持すら不十分であり、それ以上に台湾をどう発展させるかということについては、具体的な成果はほとんど挙がっていなかった。台湾統治の基本方針については、フランスのアルジェリアにおける同化政策をモデルにする事が合意されていたとされているが、それとて明確な意味は不明のままである。そして、台湾統治の難航から、前途を悲観し、台湾を他国に売却する案も一部に唱えられていたのである。
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