美濃伊勢制覇
 ~クロスロード~
 


 伊勢攻略
信長は、上洛戦の前提として永禄11年(1568)2月に北伊勢に侵攻し、三男信孝を河曲郡の神戸氏の、実弟信包を安濃郡の長野氏の養子とし、さらに一族津田一安を伊勢を代表する港湾都市・安濃津(津市)に置いた。これは、東山道のみならず北伊勢を縦貫する東海道を掌握する為だった。
信孝は神戸城に、信包は上野城に入城し、一安を含めた三人は、環伊勢海の要港を支配することになった。永禄12年9月には南伊勢の大名・北畠氏を攻撃し、講和によって次男信雄をその養子とする事に成功した。このようにして、伊勢一国が信長の新たな領国に加えられたのである。
次男信雄、三男信孝、実弟の信包に、一族の一安、これらを伊勢に配置したことは、信長がいかに伊勢の地を重視していたかを物語っていよう。そして、この伊勢攻めの当時の総司令官が滝川一益であったことは、信長にとって最も信頼厚き武将がこの一益であったとも考えられるのである。
 伊勢を重要視する信長の戦略とは
長野氏の当主となった信包は、織田家中では信雄に次ぐ第三番目の実力者だった。彼は、一安に代わって安濃津の対岸の最も安定した砂堆に着目して津城を築城し、上野城から移った。縄張は滝川一益が担当し、天正8年までに完成したといわれる。その特徴は、大手を伊勢湾側に向けて設け、城内に港湾機能を取り込み、城下町と橋や船で結ばれたことである。
また天正8年に信雄は、居城田丸城が炎上したことから、要港細汲を擁する松ヶ島(松坂市)に築城し、本拠地を移転している。新城は、五層天守を中心とする海城であり、伊勢街道を城下町に引き込んでいたといわれる。
信長がなぜ伊勢を重視したのか?それは、伊勢の掌握こそが、東海道をはじめとする東国と京都を結ぶ大動脈であることに加え、関東への足掛かりとなる太平洋海運を押さえることを意味したからである。同国には、桑名・安濃津・大湊(伊勢市)に代表される東海―関東を結ぶ太平洋流通上の有力港湾都市があったからである。
 信長の生命線
信長は、既に尾張・美濃の商売を統括する御用商人を抱えていた。その代表が尾張出身の伊藤惣十郎である。清須で信長に仕えた。元亀3年(1572)12月、信長より朱印状が与えられ、改めて両国における唐人方(輸入呉服)と呉服方の商人司に任命され、役銭の徴収や他国商人の監督に当たった。
ただし、尾張そして美濃の商品は、舟運を利用して伊勢の港湾都市に廻漕される場合が多かった。しかも伊勢の要港には、環日本海地域の物資(麻糸・紙・陶磁器・菜種ゴマ・のり・魚・伊勢布・呉服など)が越前・若狭から保内商人に代表される近江商人によって、琵琶湖と鈴鹿山脈を越えて直接もたらされたことが指摘されている。
越前敦賀・若狭小浜から三津と称される塩津・海津・今津(いずれも琵琶湖北畔)へ、三津から琵琶湖上を湖東の薩摩・伊庭等の諸港へ、さらに八風越えあるいは千種越えを経て桑名・四日市などの北伊勢地域へと到達するルートによって、環日本海流通と太平洋流通とが結ばれていたのである。
信長が実弟や子息を伊勢に置いたのは、東国―京都及び日本海―太平洋の流通がクロスする両国の掌握が、尾張・美濃の領有を保証する重大な条件と判断したからに他ならない。
尾張や三河で荷を積んだ舟は、海流の関係で一旦は安濃津等の伊勢側の港湾都市に寄港し、そののち伊勢湾を出ていった。したがって伊勢一国の領有は、莫大な富の集積を可能にしたのであった。環伊勢海地域を基盤とする政権にとっては、まさしく生命線であったのである。




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