美濃伊勢制覇 ~義昭との確執~ |
義昭の幕府関係者については、永禄12年正月14日付で信長が義昭に提出した「殿中掟(仁和寺文書)」に役人名が散見するが、それによると、部屋衆・定詰衆・同朋衆・御供衆・申次・番衆・奉行衆・足軽衆・猿楽衆といった多様な存在が確認される。そして約120人に及ぶ幕臣の存在が指摘され、義昭の幕府は本来の機能を回復しつつあったことがわかる。 また、義昭政権は信長の傀儡とされてきたが、近年の研究によって根本的な修正を迫られることになった。義昭政権が、幕府機構を整備し、御料所を再興し、さらに都市「京都」の商工業権益・地子銭等を掌握したことが明らかになり、幕府としての実態を持っていたと結論付けられたのである。 信長が添状を発給するなどして義昭を補佐したのは、最有力の幕臣という立場に由来していたためである。「永禄6年諸役人附」では、信長が外様大名衆として位置付けられている。だが、ほどなく二人は幕政のあり方をめぐって対立し、政権が分裂したのである。
条書の冒頭に見られる義昭の黒印は、信長に強要されて捺したようだ。しかしその後も義昭は将軍として独自に政務を行っており、実効能力を伴ったものとは見難い。 ここから両者の本格的な確執が始まる。元亀年間を通じて、義昭は浅井氏や朝倉氏などの戦国大名や大阪本願寺と密かに手を結んで「信長包囲網」を執拗に結成し、信長をたびたび窮地に陥れた。専制化を目指す将軍権力と、それを阻止しようとする管領をはじめとする実権者の抗争は、何度も都を舞台として行われていたことである。 それにしても、義昭の卓越した外交能力には恐れ入る。特に重要なのは、義昭の要請に応じた武田信玄の上洛であった。もしも元亀4年4月に、西上途上の信玄が死去しなければ、信長の命運が尽き、義昭の幕府が延命した可能性は十分にあったであろう。
木曽三川の合流する輪中地域の伊勢長島に、浄土真宗寺院願証寺を建立したのは、本願寺八世宗主蓮如の子蓮淳であった。同寺は「河内御堂」とも称され、尾張・伊勢の門徒宗を広く組織し、一向一揆の際には一大拠点となった。当時の長島は大小の島々が浮かび、交通はすべて舟で行われていた。早くから伊勢支配を目指した信長も、水軍力の不足から、この地域には影響力を行使し得ないままだった。 元亀元年(1570)に決起した大坂本願寺は、諸国の門徒に檄を飛ばした。長島においても同年11月に一揆勢が戦闘を開始し、尾張小木江城を守っていた信長の異母弟信興が自刃する。当時、浅井・朝倉連合軍と近江宇佐山で対陣していた信長は正親町天皇を通じて講和し、長島一揆対策に専念した。 元亀2年5月、信長は長島を攻撃するが、柴田勝家が重傷を負い、美濃大垣城主であった氏家直元が討ち死にするなど惨敗に終わる。この時期、大坂本願寺では宗主顕如の指揮のもと、長島一揆を始め近江堅田などの一向一揆が、信長包囲網の一角を形成した。 元亀3年11月には、遂に武田信玄が上洛を開始し、浅井・朝倉両氏や一向一揆勢力が、この動きに応じる。義昭は、これらを利用して信長の除去を目指す。この頃、長島一揆は岐阜から三里の地点に砦を構え、それを斎藤氏の重臣日根野弘就が守備していた。かつて信長に追われた斎藤龍興をはじめとする美濃衆は、長島一揆と共闘して美濃の奪還を目指していたのである。
2月に堅田一揆が蜂起するも鎮圧され、頼みの綱の信玄も、西上途上の4月に信濃駒場で病死する。更に7月には、義昭自身が宇治槙島で敗退し、8月には朝倉氏が、9月には浅井氏が滅亡した。そんななか、長島一揆は9月末から信長の攻撃を受けるが、近江の甲賀郡中惣や伊賀惣国一揆からの援軍を得て、何とか反撃することができた。 翌天正2年7月、信長は長島一揆に対して決戦を挑む。志摩の九鬼嘉隆や北畠信雄の水軍を動員し、9月までに長島地域を完全に包囲した。餓死者を大量に出し、一揆勢は降参するが、信長は撤退する一揆衆に対して容赦なく鉄砲を釣瓶打ちした。また近隣の中江城や長島城に籠っていた男女2万人も、悉く焼き殺したといわれる。 長島一揆に代表される戦国時代末期の一向一揆においては、将軍義昭の推戴と反信長勢力との連携という政治路線が貫かれていた。この時期に誕生した甲賀郡中惣や伊賀惣国一揆などの大規模一揆においても、これは同様であった。信長との抗争を通じて、義昭の幕府は民衆的基盤を持ったのである。 |