美濃伊勢制覇
 ~武篇道の強調~
 


 兵農分離の度合い
信長の軍隊の最大の特徴は、長槍を中心とする装備もさることながら、抜群の機動力に求めるべきである。
尾張時代から上洛までの期間における信長の出陣した時期を見ると、確かに8月から4月までのいわゆる農閑期を中心とする時期が多いが、ほぼ1年を通して戦闘している。つまり、信長の軍隊は1年間戦える体制にあったということであり、兵農分離が進んでいたことがわかる。
もっともこれは、軍勢が千人未満で最大でも二千人程度と規模も比較的小さく、その主力を担ったのが清須あるいは小牧など、その時々の本拠地在住の近習たちと軍事訓練を積んだ足軽隊だったからと推定される。それが、軍団の機動力を保証したのだろう。
 信長のカリスマ性の源泉
信長のカリスマ性の源泉は、彼の合戦のスタイルに求められる。その合戦の大多数がいわゆる強攻戦であったことと関係するのである。桶狭間の戦いのような絶対不利な条件においてすら、作戦を家臣団に開示して協力を求めるようなことはせず、自らの判断に基づいて先陣切って出陣している。軍勢は、熱田神宮に到着した時点で主従6騎と雑兵200人ばかりで、最終段階で2千人になったといわれる。(信長公記)
近習と足軽に重きを置く戦術は、尾張時代の信長の特徴だった。彼らで編成された千人に満たない規模の軍隊が、信長の意志に最も忠実に従う軍団の中核だった。特に桶狭間の戦いを画期として、彼らが信長をカリスマとして崇めており、絶対服従を前提とした厳格な主従制が成立していた。
岐阜時代になると、信長は先陣を重臣に任せることが多くなり、動員する軍勢も万単位に膨張する。永禄11年9月の上洛時には6万とも言われる大軍を率いている。領国が広がり、さらに将軍を補佐し公儀の一翼を担う立場になって、軍勢動員力が飛躍的に高まったのである。
 絶対服従を強いる
しかし、この段階においても、信長はここぞという重要な戦機に臨んで、自らの判断で近習を率いて陣頭指揮をして突撃することがあった。天正元年(1573)8月の近江小谷城攻撃に際して、浅井氏を救援に来た朝倉氏が撤退する時期を予測し、先陣を担当する重臣たちに好機を逃さないように命令していたにもかかわらず、信長自身が追撃し、重臣たちがそれを負うことになった。
この折、信長に先を越された滝川・柴田・羽柴・丹羽・蜂屋・稲葉などの重臣が、早速陳謝するが、佐久間盛信のみは、信長に「自分たちほど優秀な家臣を持つことは難しいのではないか」と反駁した。これに対して信長は激怒し、信盛の武将としての才覚のなさを糾弾している。
これが、天正8年に信盛・信栄父子が追放される前提となった。その際、家臣団に示した折檻状の中で、信長はあくまでも主命を絶対とする武人としての活躍すなわち「武篇道」を強制している。信長は、自らの政策あるいは軍事に関わる命令を、重臣といえども批判することを一貫して許さなかった。これが家臣団に対するカリスマ支配と表裏一体の関係にある、一種の恐怖政治の原因でもあった。




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