美濃伊勢制覇
 ~美濃制覇へ~
 


 清州から小牧山へ
桶狭間の戦いにおける信長の勝利は、その外交戦略に大きな変更をもたらした。永禄5年(1562)正月には、今川氏の傘下から離脱し、三河岡崎城に帰還した徳川家康と、清須城において三河刈谷城主水野信元の仲介で同盟する。これによって、東からの脅威が消滅し、信長は以後、美濃・伊勢・近江そして京都へと西への侵略が一貫して進められたのである。
永禄6年、信長は美濃攻撃の第一歩として、本拠地を清須から小牧山へと移転する。広大な濃尾平野にあって、小牧山は斎藤氏の居城稲葉山を見通すことのできる要衝にあった。ここに城郭と城下町を新造したのである。近年の発掘により、清須城では使用されていなかった石垣が本丸や大手道に用いられ、城下町も新たに計画的に造成されたことが明らかになっている。
これは、直接的には斎藤義龍と結びついた尾張北部の反信長勢力を一掃することを目的としたものである。それと同時に、何のしがらみのない新城下町を用意して一族・重臣を招き寄せることを目指すものであり、本格的な兵農分離の第一歩とも考えられる。
 兵農分離の促進
戦争が大規模化し長期化すると、領国規模で長期遠征可能な職業武士=兵と、その後方を支える専業農民=農の創出を進めなければならなくなる。これをいち早く認識したのが信長だったといわれる。(異説有り、他の戦国大名の信長に先駆けて兵農分離に着手していた可能性もある)
兵身分を誕生させるためには、家臣団に所替えを強制して本領を取り上げ、領主と彼らの父祖伝来の領地・領民との強いきずなを否定することが前提となる。しかし尾張国内は、譜代家臣の本領が集中していたため、容易ではなかった。有力な家臣層については、信長の本拠地移転のたびごとに城下町に屋敷地を与え、その近辺に所領を給与していった。また、小牧移転に際し、信長は一旦環境の厳しい二宮(犬山)に本拠地移転を宣言し、しかるのちに小牧への変更を指示している。家臣団の不満を和らげるため、いかに配慮していたかがわかる事例である。
 岐阜に
永禄8年5月の将軍足利義輝暗殺によって、信長にとって美濃制覇は、京都への安全な通路としての東山道(中山道)を確保し、足利義昭を奉じて上洛するための前提として、必要不可欠の軍事課題になった。同年11月には、東美濃地域の安全を確保すべく、養女を武田勝頼に嫁がせた。永禄9年8月、信長は念願の上洛を企てたが、斎藤龍興によって阻まれてしまった。
対応策として、永禄10年5月信長は息女五徳を家康の嫡男信康に嫁がせ、家康とのパイプをさらに太くする。ようやく同年8月には、斎藤氏の重臣である美濃三人衆(稲葉良通・安藤守就・氏家直元)が内応し、斎藤氏の本拠稲葉山城は陥落した。
信長は、美濃、尾張、そして伊勢という環伊勢海参加国の支配拠点として、居城を稲葉山城に移し、地名を中国の故事にちなんだ「岐阜」とした。そして同年11月からは、有名な「天下布武」の印章を用い始める。
この印文は、大軍を擁して上洛することによって、天下、すなわち京都の復興を目指すことを意図したもので、巷間伝わる「武士による天下の支配」という言う意味よりももっと直線的、具体的な意味があったと思われる。義昭を奉じて幕府を再興することが、領国支配の安定化に直結すると認識した当時であり、自らの武力によって室町幕府に代わる政権を樹立しようとする意思の表明などではない。
信長がたとえ強気であったにせよ、一足飛びにそのような「天下を己で支配する」といった大望を持ったとは思わない。また、上洛が必ずしも天下統一を意味するとはいいがたい。
永禄11年7月、信長は越前朝倉氏のもとに亡命していた義昭を岐阜に迎えると上洛の準備に入り、9月には6万ともいわれる尾張・伊勢・美濃・三河の大軍を従え、迎え討つ六角氏を一蹴して入京し、さらに三好三人衆を追い出して瞬く間に畿内を平定した。義昭が15代将軍に任官したのは、同年10月18日の事だった。




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