人間・立花宗茂研究
 ~宗茂の教育~
 


 大器の芽
立花宗茂は、幼いころよりその器量を思わせる言動と行動が少なくなかった。
7歳のころの宗茂は、相撲を好み、同年輩ん子供では全く相手にならないため、いつも2,3歳年上の子供と相撲を取り、それでも負けることがなかったという。弓も巧みで、10メートル離れた小鳥をも軽々と射落とすことができた。宗茂は少年たちを家来のように引き連れて険しい山で鳥や獣を追い、川で魚を捕え、大宰府や観世音寺まで足を伸ばし、時には父の高橋紹雲に連れられて四王寺の岩屋城を訪れたりした。自然の中で遊びまわるうちに、頑健な体になり、足腰が鍛えられ、足早の父紹雲と歩いても、少しも遅れることはなかったという。
ある日、少年たちと鷹狩りに出たとき、突然大きな野犬が襲い掛かってきた。ほかの少年たちは驚いて逃げたが、宗茂は少しも慌てず、素早く鷹を左手に持ち替え、右手で刀を抜くと、峰打ちで打ちたたいたので、その犬は悲鳴をあえて逃げ去った。刀を抜いたならば犬を切り捨ててしまうのが一般的な反射行動なのだが、父の紹雲がこのことを尋ねると、宗茂は「刀は敵を切るものです。犬や猫を斬るものではありません」と答えた。わずか7歳の子供が武士としての心構えを示しつつ、無益な殺傷を避けるという極めて人間的かつ冷静沈着な行動をとったことを知り、紹雲は宗茂の大器を確信し、「わが子ながらまこと見事である」とうれし涙を流すほど喜んだという。
また、8歳のとき、伴の者数名と立花城の南方にある多々良川で行われる大掛かりな魚捕りを見物に行ったとき、見物人たちの喧嘩が始まり、死傷者が出るなど大騒ぎとなった。驚いた群衆は逃げまどい、宗茂の伴の者も喧嘩に巻き込まれることを恐れ、宗茂の手を引いてその場を立ち去ろうとした。だが、宗茂は悠然と座ったまま、立ち去ろうとしない。伴の者は「ここにいては危険です。いち早く退散しましょう」と言うと、宗茂はおかしげに笑って「お前たちが騒ぐことはおかしい。こちらが相手にならなければ危害など加えられるはずがない。せっかく来たのだから最後まで見物して帰ろう」と言い、悠然と構えていたという。そのうちに騒ぎも収まり、逃げていた見物人も集まってきて、元のように魚捕りの見物を始めた。伴の者たちは、宗茂の8歳の少年とも思えぬ豪胆で沈着な態度に感嘆したという。
 厳しい鍛錬
天正3年(1575)9歳の時、宗茂は立花城の戸次道雪(立花道雪)のところへ遊びに行き、道雪と一緒に食事をすることがあった。道雪はすでに63歳になっており、高橋家の次代を担うであろう宗茂を子細に観察していた。食膳には鮎が出た。宗茂は、その鮎を橋でむしって小骨を取りながら食べた。一般的な行儀のよい食べ方であった。が、道雪はそれを見て、大声を上げた。
「武士にあるまじき、おなごのようなその食い方は何だ!頭からかぶりついて食え!それが武士の作法というものだ」
道雪ほどのものから一喝を食らえば、通常の子供であれば泣き出したであろうが、宗茂は涙など流すことなく、鮎を丸ごと噛み砕いて食べ続けたという。宗茂の将来に期待していた道雪一流の厳しい教育だったのだろう。
天正7年、13歳になった宗茂は、戸次道雪と同道していたが、そのとき足に栗のイガが刺さってしまった。宗茂がつい近くの者に「これを抜いてくれ」と頼んだところ、53歳の由布雪下が走り寄っていき、いきなりそのイガを押し込んでしまった。老臣の雪下は戦場においては、身の痛みなど踏み越えて進まねばならぬ、ということを身をもって教えようとしたのである。瞬時にそれと察した宗茂は、最後まで痛みをこらえて歩き続けた。雪下は、宗茂の我慢強さを見て大いに喜んだ。
大器だからこそ、それを見込んで厳しい教えを授ける。そしてその期待に見事にこたえるという好循環で、宗茂は名将として順調に育っていったのである。




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