1905年の連合艦隊主力艦
 ~戦艦三笠~
  
 常備排水量  15,140㌧ 満載排水量  15,179㌧
 全長 131,7ⅿ 全幅 23,2ⅿ 吃水 8,28ⅿ
 垂線間長 122,0ⅿ  水線長 126,5ⅿ
 主機 ベルヴィル水管缶25基 垂直三連成機関2基2軸
 出力 15000馬力  速力 18,0ノット
 石炭 700~1,52㌧ 乗員 830名
 装甲 クルップ鋼:水線装甲帯229ミリ
    砲塔254~203ミリ バーネット356~203ⅿ
    上部装甲帯 152ミリ 甲板 102ミリ
    司令塔 356ミリ
 兵装 完成時 305ミリ40口径砲4門(連装2基)
        152ミリ40口径砲14門 
        76ミリ40口径80門 47ミリ砲8門
        短47ミリ砲4門 450ミリ魚雷発射管4門
 艦名 
三笠(奈良県の山の名前)
 建造所 ヴィカーズ社 バロー・イン・ファーネス工場    (英国)
 起工 1899年1月 進水 1900年11月8日
 完成 1902年3月1日
    (記念館として横須賀市内に保存)  
  
 


 概要 
海軍の第二期拡張計画で建造された最後の戦艦であり、横須賀へは明治35年(1902)5月18日に到着している。この後は予算の関係もあって新造艦はしばらくなくなり、次の建造はやはりイギリスに発注されて香取になったが、約5年間の空白を生じている。ロシアはこの時期、ほぼ三笠に匹敵する戦艦ボロディノ級5隻を建造しており、これが完成して極東へ回航されてしまえば、明治39年(1906)以降に香取、鹿島が完成するまで、日本海軍は旅順に手が出せなかっただろう。その頃にはロシアでも次世代の戦艦が建造されているはずで、いずれ日本側が確実に優勢になるとは期待できなかった。
副砲砲廓以外の一般配置は敷島に準じているが、艦首のシアーは前3艦に比べて大きい。2本のマストにはそれぞれファイティング・トップが設けられている。但しのちに黄海海戦の戦訓によって撤去されている。
主砲塔は新型のものとなり、砲室直下に換装室が新設され、ここで上下の揚弾筒間に積み替えを要する様になった。艦底の弾庫から一気に揚弾する初瀬までの方式より後退したように見えるが、以前の方式では重い砲弾を10ⅿ以上も持ち上げるには機器の力量が不十分であった。また1発ずつの揚弾で、装填が終わるまでに揚弾箱が砲尾から下りてこられないために次発の準備ができず、充分な発射速度が得られなかった。揚弾径路を分断し弾薬の滞留場所を作り、それぞれのストロークを短くして速度を上げることで発射速度を向上させているのだが、換装室内に余分な砲弾薬が存在することから、誘爆の危険性は増していた。発射速度はおよそ2分間に3発とされる。
イギリスで同時期に完成した戦艦ヴェンジャンスには、全仰角での装填が可能な新型砲塔が採用されているが、アームストロング社の製品だったこともあり、三笠には装備されなかった。
装甲にはクルップ鋼の導入が可能となり、主装甲帯の耐弾力は大幅に増している。さらに上部装甲帯を設けて中甲板までを覆い、副砲のうち方舷5門をここに配備した。それまでの独立した砲廓と異なり、防御甲板の上で無装甲だった機関部の上層にも、有効な防御効果が生まれている。
機関に前級と大きな違いはないが、煙突は2本で、前後とも同じ太さとされた。内部に収容されている煙路の数は異なっており、外筒を同じ大きさにしたものである。速力性能もほとんど変わっていない。公試では16,431図示馬力を示し、18,5ノットを記録している。
日露戦争では連合艦隊の旗艦を務め、黄海、日本海の両海戦ではかなりの被害を被ったものの、致命傷になるような命中弾はなかった。終戦直後の1905年9月12日、佐世保港内で後部火薬庫の爆発により沈座し、多数の乗務員が殉職している。その後、浮揚して修理され、1908年のアメリカ戦艦隊の訪日において接伴艦隊の旗艦になり、将兵から畏敬の眼差しを浴びている。第一次世界大戦では、北方警護に当たるなどしたが、座礁事故を起こして船体を痛め、外洋航行が困難になった。
ワシントン軍縮条約での廃棄対象となったが、関係者の尽力によりよって記念艦としての保存が決まり、武装を撤去したうえで現在の横須賀海岸へ陸封された形に保存された。
第二地世界大戦後は米軍によって解体され、ダンスホールと水族館になるなど荒廃したが、補修、復元されて現在に至る。その存在は、日露戦争が明治期の日本にとってどういう意味を持っていたかを考えるきっかけとなる、貴重なものといえよう。




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