名君・上杉鷹山
 ~名君論~
 


 内村鑑三の「代表的日本人」
米沢藩九代藩主上杉鷹山は、戦前・戦中教育において、その教科書に、また偉人伝記の一冊に必ずといってよいほど収められており、その名を知らぬものはほとんどいなかったはずだ。
鷹山は、すでに江戸後期には全国でも名君の誉れが高く、その名は知れ渡っていた。それは、藩政改革に対する幕府の奇特の表彰にみられるように、この頃の大名の模範として認められ、その治政や行動についても、従者たちの中で広く顕彰されていたことがあげられる。明治以後も、日本的な近代国家の形成の上で、農本主義的なその思想が特に重視されたことによるものでもあった。
鷹山を日本の代表的人物として有名にしたのは内村鑑三であった。内村は明治時代のキリスト教主義者で、日本における優れた国際的な人物であったが、英文で「日本及び日本人」」を著し、後にこれが「代表的日本人」として改判発行された。内村はこの中で、西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮上人の五人を上げ、それぞれの分野における代表的日本人として、その思想と行動における優れた面を、特に道徳的な立場から叙述している。鷹山は、封建制下における理想的な政治家であり、今日においても、日本人の誇るべき人物として取り上げられたものであった。その中で内村は次のように述べている。
「封建制度にいろいろな欠陥があった。そして其等の欠陥のために、我々は封建制度をして立憲制度に替えたのである。併し鼠を焼こうとした火は納屋を焼きはしなかったか。封建制度とともに其に結び付いていた忠義・武勇・多量の雄々しさや人情味が我々より喪われはしなかったかを、我々は畏れるのである。封建制度の強みは、治者と被治者との間の関係の此の人格的な性質に存する。」
「凡ゆる人間のうちにて、恐らく鷹山は、欠点や弱さを数え上げられる必要の最も少ない人物であろう。彼は、如何なる伝記者も多分意識し得ないほど、自分の欠点や弱さを自ら意識していたからである」
このように、内村は江戸時代の封建制路を否定しながらも、封建制下における人間関係、その根底にある道徳は、日本において高く評価し、これを守るべきものとしている。そしてこの儒教道徳の政治における実践が、上杉鷹山が指導した米沢藩政であったとする。内村のいう「聖人の政」である。その米沢藩の実態を儒者倉成龍渚の見聞記を元に次のように書いている。
「読者諸君は、余輩が知らぬ昔の神秘国について、田園詩を書きつつあると想像し給う勿れ、余輩の書く事は実際の現実であったのである」
さらに続けて、領内には政治に反対するもの、人を欺くもの、また盗人などは一人もなく、領主と人民が完全に信頼関係を保ち、理想的な藩社会が展開している、と述べているのである。
 儒者たちが驚嘆した鷹山の治政
内村は儒教道徳の理想政治を、藩主鷹山のもとにおける米沢藩に発見していた。もちろん、この時期の現実社会の状況が子の通りでなかったことは、その後の多くの具体的な研究や史料によって明らかにされている。しかし他藩に比べ、農民の逃亡や百姓一揆などの騒動が少なかったことは事実であろう。
以上のような状態が現実であったにもかかわらず、儒学、正しくは折衷学の政治思想を拠り所に、危機に瀕した藩政の立て直しを、成功に導いた鷹山の改革が、従者たちの脅威の的であったのだろう。儒者の書いた見聞記には、多分にそのような観念が働いても不思議ではない。内村から見れば、治者の道徳が、以下に大きな役割を持つかを強調する点で重要であり、内村のこの上杉鷹山論は、その後の日本人論にも大きな影響を与えたといってもよい。
この内村の上杉鷹山論は、短文ながらも気迫のこもった内容ではあるが、道徳的な立場から書かれたものである。また著者の目的も、はじめ英文で書かれたことで知られるように、欧米先進国に対し、日本人の優秀性を説くという民族主義の立場もあった。その著作年代も、日清戦争の直前である。米沢藩政の歴史的な背景や、客観的な事実に関する内容が未熟だったことも当然であった。しかしその後、鷹山に関する伝記書も多く書かれたが、第二次大戦までのものは勿論、その後の物も内容的には詳細になり、具体的になったとしても、その立場や見方は、内村のそれを増幅したものが多かったといってよい。
第二次大戦後、日本は国家主義的体制から、民主国家建設へ一大転換した。そこで儒教思想や封建制への批判が高まったが、昭和30年代初め、鷹山の扱い方について山形で議論されたことがあった。「朝日新聞」にて当時の山形県知事の村山氏が、戦後の鷹山批判に対し、「節約」だけの鷹山に祭り上げるのは誤解であり、鯉や鰻の養殖などの産業振興も行っていることを上げ、当時もっとも進歩的な殿様として鷹山を見直す必要を説いた。これに対して斎野良吉氏は、「山形教育」で道徳教育の立場から、鷹山も人間である事、封建時代の殿様である事を上げ、鷹山を「偉人」という見方で塗りつぶすのは一面的であると批判している。
 道徳的か否かは
一般的に、歴史上の人物をさして「道徳的」な人物であるかどうかを評価することは、必ずしも正当な問題とは言えない。戦後で言えば「民主的」でなければ、全て評価に値しないという時代感覚で、これを問題にする傾向があったと思われる。人間はすべて、時代の子であるという一面を持っている。その人物は、一定の時代的な制約の中でどんな役割を果たしたのか。このことは、歴史的な人物を評価する場合の重要な視点である。しかしまたここで言えば、藩主としての鷹山の顔と、人間としての鷹山の顔とがある。両者は深く結びついてはいるが、後者は普遍的な道徳や人間としての生き方の問題でもある。歴史上の有名な人物程、書かれた人物、上から作られた偉人として、イメージ化されている場合が多い。上杉鷹山も決して例外ではない。
奈良本辰也氏は、「近世政道論の展開」の中で、儒教の教養を広く身につけ、藩主としてこれを実践した典型的な人物として、松平定信と上杉鷹山をあげている。特に鷹山は、藩国家の破局寸前に藩主として登場し、「伝国の辞(天明5年)」の中で、国家は先祖より授けられたもの、人民は国家に属したるもの、君のために国家人民があるのではなく、国家人民のために君がある、という有名な言葉を示し、これを実践した人物であったと評している。鷹山の実践には、公平・無私そして温情があり、口先の議論ではなく、常に先頭に立って行う政治家の姿があったとも述べている。また、これが佐久間象山のいう「東洋の道徳」の実践であるという。「伝国の辞」は、儒教の君主道徳による「民の父母」の精神を敷衍したものであり、封建的な専制君主への戒めの言葉でもあった。
歴史的背景や藩政改革の全体的推移との関係の中で、その改革の理念にも触れつつ、出来るだけ具体的な政策及び活動の事例を通して、鷹山の人間像を追っていきたいと思う。彼なりの「東洋の道徳」の実践と実像とは何であったのかを明らかにしていきたい。





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