2・松平容保の一族 ① 会津松平家 正之出生の秘密 |
秀忠が御手付きした数少ない事例から |
会津松平家の藩祖は、保科正之である。初代正之の時代は保科家であったが、三代正容のとき、元禄9年(1696)12月、五代将軍綱吉から松平氏と葵紋を許されたため、以後松平姓となった。 保科正之は二代将軍秀忠の第四子で、三代将軍家光の弟にあたる。しかし、正之は秀忠側室の子で、はじめは認知されず、将軍子息という待遇を受けないまま、信州高遠3万石の城主保科正光の養子となった。 保科正之には次のような出生の秘密がある。司馬遼太郎は、松平容保を主人公とする小説「王城の護衛者」の最初の書き出しに、「会津松平家というのは、ほんのかりそめの恋から出発している。秀忠の血統である」と書き、京都守護職に容保を引き出そうとする福井藩主松平春嶽に、「二代将軍はよくぞ女遊びをされた」とも言わせ、会津藩の存在を明らかにしている。 秀忠が正室お江の方の眼を盗んで乳母の侍女と密会し、正之が生まれた。その結果、会津松平家が誕生したというのである。 |
嫉妬深いお江の方 |
お江の方というのは、近江小谷城主浅井長政の末娘、母は織田信長の妹お市である。姉に豊臣秀吉の側室淀殿(茶々)と、京極高次正室の常高院(お初)がいる。姉妹3人は、父長政の小谷落城と、母と再婚した柴田勝家の北ノ庄城落城の二度にわたって、戦の城から脱出するという数奇な運命をたどっている。お江の方はさらに政略結婚の犠牲となり、6歳年下の秀忠と結婚するときは、もう3度目か4度目の婚姻だったようだ。 しかし、秀忠との間に三男四女をもうけ、三代将軍家光や駿河大納言忠長、秀頼夫人の千姫、後水尾天皇中宮の和子はその実子である。そのうえ、お市の方譲りの美貌と天性の才幹は、「後継者づくりのための愛妾側室は無用」という自信を与えた。 生来の嫉妬心も強く、温厚篤実な秀忠には自分以外の女性は一人も許さなかった。多くの妻妾を持つのが当然だった歴代将軍中、側室を一人も持たなかったのは秀忠と病弱だった家定、それに皇女和宮をめとった家茂だけだった。 しかし秀忠にはただ一人だけ乳母の侍女で志津という女性を密かに愛し、正之を身ごもらせたといわれている。志津は北条氏の浪人神尾伊与栄加の二女というが、武州板橋荘の竹村の大工か百姓の娘という別説もある。 |
氷川神社の祈願文 |
埼玉県さいたまし市の氷川神社には、「氷川神社祈願文」というのがある。 うやまって申、きくわん(祈願)の事 南無ひかわ大めしうん当こくのちんしゆ(鎮守)として 阿とを此国にたれたまひ、しゆしよう(衆生)あまねくたすけ たまふ ここにそれかしいやしき身として 大しゆ御をもひものとなり御たねをやどして 当四五月のころりんげつなり しかれども 御たいしつとの御こころふかくゑいちう(営中)におることをゑず 今しんしょうぜん(信松禅尼)のいたわりによってみを このほとりにしのぶ それがしまったくいやしき身にしてありがたき御てうあいをかうむる神 はつとしてかかる御たねをみこもりながら住所にさまよふ 神めいまことあらはそれかしたいない(胎内)の 御たね御なんし(男子)にしてあん産ごしたまひ ふたりとも生をまっとふし御うんをひらく事をえ 大くわんしよしゆ(大願成就)なさしめたまはばしんくわん(心願)のことかならすかひたてまつりまじく候なり けいてい(慶長)16年2月 志津 これは正之の母志津が武州氷川大明神に安産を祈願したものである。「身分の卑しい私が太守(将軍)の思い者となって子供を宿したが、御台所の嫉妬が強くて江戸城中におることはできない。しかしどうぞ男子を安産させてくだされ」という切なる祈願文なのである。 この文中の信松禅尼とは、武田信玄の五女松姫である。織田信忠と婚約した後に三方ヶ原の戦となり、この縁組は事実上破談となった。その後武田氏は滅亡し、八王子台町に草庵を開いて尼となったが、妊娠中の志津を保護した。正之誕生後は、姉の見性院(信玄二女)に養育を依頼することになる。 |