1・真田昌幸の出自と系譜 真田氏海野嫡流説 |
真田氏は海野嫡流なのか? |
真田氏は、滋野三家でも本家筋とされるこの海野氏の直系だと自称している。「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」所収の真田氏系図を含め、江戸時代に真田家が作成した系図では、昌幸の父である幸隆が海野宗家を継いだのだが、真田に居住したため海野から真田に改姓した、としているのである。 この話は鵜呑みにできるものではない。このように唱えるようになったのは幸隆以降のことだろうが、その真偽はともかく、幸隆、そして昌幸の活躍した戦国末期の争乱の中、真田氏が大きく勢力を伸ばしていくうえで真田海野嫡流説は、単に家柄を飾るにとどまらない重大な意味を持っていたのではないかと思われる。 幸隆は天文15年(1546)ころ、武田信玄の家来となり、その才能を認められて重く用いられ頭角を現していくことになる。この幸隆の活躍の中で特筆すべきことの一つに、上野国吾妻郡の攻略があげられる。吾妻郡は真田町とは鳥居峠を境として接する地でもある。幸隆は永禄6年(1563)同郡の中心拠点の岩櫃城を、次いで同8年には岳山城を攻め落としている。この地での幸隆の活躍は、やがて昌幸に受け継がれ、武田氏滅亡後は北条氏等諸強豪に伍してその勢力範囲を持ちこたえ、上州北部の吾妻・利根両郡という広大な地を、真田領へ組みこむことに成功している。 この吾妻郡には鎌倉時代以来、海野氏の一族が進出し、それぞれの地名を姓とした下屋・鎌原・羽尾・西窪等の諸氏が栄えていた。また、このほかにも滋野一族としては、望月系の湯本・横谷氏、禰津系の郷原・三島・大戸氏などがあった。幸隆・昌幸の北上州の活動の間に、これらのうちの多くの武士が真田氏の指揮下に入っていき、のちの真田藩家臣団の主要部分の形成につながっていったわけでもある。このような吾妻郡攻略作戦の中で、真田氏の自称した同氏が海野氏の嫡流であるとする説は、私たちの想像以上の力を発揮することになったのかもしれない。 |
上田城に秘められた海野氏への想い |
主家武田氏滅亡後に続く大動乱の中、天正11年(1583)真田氏の本貫地でもある上田盆地を中心とする信州小県郡の統一を展望する真田昌幸により、上田築城工事が開始された。この普請は同13年に一応の竣工をみた後も、引き続き城郭そして城下町の整備が続けられた、とみられるところである。 この上田城は、鬼門除けに強くこだわっているという特徴がある。まず、本丸では鬼門の方角、つまり北東の角の土居を切り込んでいる。隅櫓もその角を避ける形で、切込みの両脇にわざわざ二棟配している。二の丸の堀も、やはり北東の隅は、堀を内側へ大きく屈曲させている。これも鬼門除けとしての隅欠(すみおとし)である。また、二の丸の堀の外側の部分は「樹木屋敷」または「樹木畠」と呼ばれ、これも鬼門除けとして、文字通り除目が植えられているだけの一画となっていた。 そして、注目すべき点は、この上田城の北東方向に、やはり鬼門除けとして、開善寺(海善寺)と八幡社が配置されていることである。この両寺社はともに上田築城以前は、本海野(海野郷)にあったものである。また、海野氏居館跡推定地(小字太平寺)の、やはり鬼門の方角に建てられていた、とみられるものである。東部町の海善寺区は、その寺名が地名となったものだが、同区内には八幡社が今も残り、それに隣接する開善寺跡には、中世の五輪塔・宝鏡・印塔・多宝塔などの残欠が数多く見られる。いずれんしても、海野氏嫡流を自称する真田氏は、その本格的な居城の築造に当たって、海野氏の例に倣うため、本海野より鬼門除けとして、開善寺と八幡社を城下へ移築したことは間違いない。昌幸はこのほかにやはり本海野より願行寺を上田へ移している。また、同じく上田城下の日輪寺は天文年間に戦死した海野幸善の菩提を弔うために建てられたという。この寺伝よりみて、やはりこれも海野氏関係に違いない。 また、上田城下町の中心は、真田氏時代以降近世・近代を通じて海野町と原町であった。この海野町と原町は一般に、上田築城に伴って同時に形成されたかのように理解されている。しかし、関ケ原以前の上田城下町は、原町はなく海野町だけであった公算が強いようだ。確かな史料に上田城下の原町が現れるのは、慶長10年(1605)になってようやくである。関ケ原合戦後である。おそらく、真田昌幸が関ケ原合戦後に高野山に配流になり、その跡を受け継いだ真田信之によって、そのころ行われた上田城下町の拡張・再整備に際して、原町は新たに形成されたものと考えられるのである。 |
上田は海野氏の町 |
真田氏の出身地は本海野ではなく真田であった。真田町本原の上原には真田氏の居館跡―通称「御屋敷」―があり、その上原には街並みが形成されていた事実も明らかにされている。それにもかかわらず、真田昌幸の上田城下町は寺社の配置も含めて本海野から移された海野町だけが、その構成の基本要素となっていたといえるのである。城の名こそ上田城だが、上田は海野氏の城とその城下町の体裁をとっていたともいえるのだ。 信之時代んあって、本原(上原)から移された原町が上田にできたとみられるのだが、それにしても本海野と違い、本原・真田を含む現真田町域から上田へ移された寺社は一つもない。 このような点からも、真田氏自身の唱える同氏海野嫡流の主張には、かなり強烈なものがあった様子が見て取れる。 なお、真田氏は上田から松代への移封に際して、松代城下にも開善寺および願行寺を建てている。そしてさらに、滋野氏の祖を祭るとされる本海野の白鳥神社を、松代に勧請して氏神としてもいた。この白鳥社にいついては、真田氏上田在城時代は上田の八幡社に合祀されていたとも伝わる。 ちなみに「真田六文銭」として知られる六連銭紋は、真田氏だけの紋章であったわけではなく、滋野姓海野氏の代表家紋であった。また、真田信之は上田在城時代の元和6年(1620)に妻小松殿を亡くしたが、その1周忌の信行が建てた小松殿の墓塔の銘文には、「真田伊豆守滋野朝臣信之妻女」とある。真田氏が滋野姓を名乗ったことについては、これが最古の確実な史料であるそうだ。 |