1・真田昌幸の出自と系譜 滋野姓海野氏 |
滋野姓海野氏の系譜 |
真田氏は昌幸の長男信之の時、上田から同じ信濃の松代藩主として明治維新まで存続した。真田氏は「滋野」を本姓としていた。全国の大名・旗本から提出さた各家の系図をもとに江戸幕府が編纂した「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」でも、もちろん真田氏は「滋野姓」あるいは「滋野氏」とされている。 東信濃の小県・佐久の両郡には、古くから「滋野三家」と称する海野・望月・禰津の三氏があった。この三氏は平安時代末の保元の乱以降の活躍が、諸史書にしばしば見える、信濃の名族である。そして、この滋野氏を祖とする一族は、中信濃の筑摩・安曇両郡や上州吾妻郡まで広がっていた。真田氏もまた、この滋野姓海野氏の系統であった。 |
古代滋野氏 |
「群書類従」所収の「信州滋野氏三家系図」「滋野氏系図」では、重の一族は聖和天皇の曾孫という善淵王なる人物が滋野朝臣の姓を賜ったのが、その始まりとしている。この点については、以前から疑問視されていたようである。しかし、滋野氏という中央貴族がいたことは事実で、この古代滋野氏についてはかなり近年の研究で明らかにされてきている。その研究によると、六国史に見える滋野宿禰または滋野朝臣を名乗る人物の奈良時代から平安前期にかけての系譜が考証されている。 最初に登場する東人は天平17年(749)に従五位下に叙せられているが、駿河守を務めたのち、大学頭兼博士に任ぜられたという大学者であった。その子船白と船白の子家訳が、桓武天皇より滋野宿禰の姓を賜ったのは延暦17年(798)のことで、家訳が滋野朝臣を賜ったのは弘仁14年(823)のことである。この系統は以後ずっと滋野朝臣を名乗る。 この「滋野」は京都御所の南西、現在の京都府庁を含む一帯の、平安京成立頃までの古い地名と考えられるという。ここには現在も滋野中学校がある。この滋野の一角に船白の屋敷があり、その地の名を賜姓されたのではないかとみられている。船白については、滋野三家の一つ望月氏のまつった古社である両羽神社(北佐久郡北御牧村)に、望月氏の祖の一人として船代像が祀られている。 平安時代初期の貞主や貞雄のころは、その勢いが盛んで、貞主は著名な学者であっただけでなく、国政に預かる参議となっている。この貞主・貞雄兄弟の娘は任明天皇や文徳天皇の子を産んでもいる。また、貞主の子とみられる善根は信濃守を、孫とみられる恒蔭は信濃介をつとめてもいる。 この滋野氏と信濃の滋野氏との具体的な関係は明らかではない。しかし、種々の状況証拠をみても、何らかの糸を引いているのだろうと考えられる。いずれにせよ信濃の滋野一族は、古代末期から中世にかけては、信濃の一大勢力であったが、海野氏は滋野三家でも本家筋とされていた。また、その三家が分かれたのは平安時代後期の11世紀の頃と考えられている。 |
海野荘と海野氏 |
海野氏の本拠地は海野郷(長野県小県郡東部町本海野)であった。その本領の地を通称の姓としたことからも、海野氏はその開発領主だったことは確かであろうが、ここは海野荘と呼ばれた地域で、その領家は藤原摂関家であった。海野荘は在地の中心勢力であった海野氏が摂関家に寄進したものだろうが、遅くとも12世紀初め関白忠実の代より、南北朝時代の14世紀中頃まで藤原氏嫡流(近衛家)に伝領されたことが考証されている。つまり海野氏は、摂関政治の全盛時代より摂関家に従属し、その将官として勢力を蓄えていたとみられるのである。 なお、海野荘の範囲は現在の東部町の西半から西隣の上田氏の神川までであったか、と考えられている。 |
御家人海野氏 |
海野氏の名が初めて史書に表れるのは、保元の乱(1156)を描写した「保元物語」からで、源義朝指揮下の武士の中に海野幸親が見られる。その後、治承4年(1180)から源平合戦が始まるが、海野氏をはじめとする滋野一族はこぞって源義仲軍に加わっていた。 しかし、この戦乱の中で海野氏の当主幸広は討死し、総大将義仲も義経に攻められ敗死する。海野氏はまさに存亡の危機に立たれたのだが、幸広の子幸氏は窮地を脱して鎌倉幕府の有力な御家人となった。幸氏は海野氏歴代の中でも最も著名な人物で、鎌倉幕府の公式な記録とされる「吾妻鏡」にも弓馬の達人としてしきりに登場する。 建治元年(1275)の「六条八幡宮造営注文」という文書がある。これは焼失した京都六条八幡宮再建のための費用を御家人に分担させた額を書き上げたもので、その負担額はほぼ所領の大きさに比例しているとみられている。 ここに載っている信濃の御家人は32人であるが、幸氏とみられる海野左衛門入道の跡(子や孫)の負担額は、佐久の大井太郎跡に次いで2位である。また、望月、春日、浦野、窪寺という滋野氏系諸族をまとめると、信濃全体の約4分の1にも上る額を負担している。この史料は国立歴史民俗博物館所蔵で、平成4年にその存在が公表されたものだが、これにより滋野一族が鎌倉初期から既に大きな勢力を持っていたことが、改めて確認されたところである。 その後も海野氏は、中世を通じて東信濃の雄族として長くその勢力を保ったが、天文10年(1541)海野棟綱のとき、甲斐武田氏の侵攻にあって没落してしまう。 |