伊達政宗
(1567~1636)

  経歴 
永禄10年(1567)米沢城主の伊達輝宗の長男として生まれたが、5歳のときに天然痘にかかり、右目を失明する。その右目を切り落としたため「独眼竜」という異名が付けられた。
18歳で家督を譲られるが、翌年父が降伏した二本松城主畠山義継に拉致され殺害される悲劇に見舞われる。以後、父の無念を晴らすかのように南奥羽各地の攻略に邁進する。天正17年(1589)には会津の芦名氏を攻め滅ぼし、南奥羽三十余郡を支配する「奥州の覇者」となった。が、芦名氏は豊臣秀吉に服属しており、秀吉の命令に背いた形となった。だが政宗は関東に北条氏がいたため、秀吉に安易に服従する気はなかった。
しかし秀吉が北条氏討伐のため30万の大軍を小田原に進軍させると、政宗も秀吉へ服従せざるを得なかった。政宗はこの時母親に毒殺されかかり、弟小次郎を殺害するという悲劇にも見舞われている。結局小田原参陣後、何とか秀吉に対面し許されるも、会津を没収され、現在の仙台付近に移封させられてしまう。
慶長5年(1600)の関ケ原合戦時、政宗は徳川方からも石田方からも「百万石のお墨付き」を得て煮え切らぬ行動をしているが、結局家康方が勝利すると態度を一変させる。が、加増はほとんどなく、仙台62万石が確定する。
江戸幕府開幕後は、徳川に臣従するが、政宗はスペインに支倉常長を派遣し交易をしようと試みたり、徳川家康の六男忠輝に娘を嫁がせて、徳川幕府に一定の影響力を残そうとする一方で、仙台城の築城や、仙台平野の開拓を行ったり、内政にも力を発揮する。
徳川三代将軍家光の代まで政宗は生き続け、寛永13年(1636)死去。享年70歳。
   伊達政宗という人物
 その能力
① 行政手腕
米沢城主だった時代は、南奥羽の攻略事業に明け暮れていて、あまり内政についての業績は伝わってこない。秀吉の小田原攻め後に政宗は会津を没収され、その後旧大崎・葛西領で一揆が勃発したが、その一揆を扇動したのが政宗だといわれている。結果的にはその大崎・葛西領(現在の宮城県ほぼ全域)に伊達家は移封される。その後、関ケ原合戦後に仙台城築城、仙台平野の開拓などを行い、最終的に伊達家は実質100万石の収益高を誇るまでになる。この点だけを見たら政宗は「名君」なのであろうが、政宗死後にいわゆる「伊達騒動」といわれるお家騒動が勃発しており、これは政宗の代で家臣団の組織作りをしっかりと行えず、旧態依然とした体制だったことが要因とされている。一見政宗は派手な成果は上げる人だが、地道な運営にはいささか弱いところがある気がする。その点でいえば「名君」といわれた同世代の真田信之、藤堂高虎、細川忠興あたりと比べても見劣りがするような気がする。
② 軍略手腕
伊達政宗は、南奥羽の大半にあたる三十余郡の平定を、18歳で家督相続後からわずか6年程度で達成している。もともと伊達家は奥羽隋一の名家であり、勢力も抜きん出てはいたが、それでもわずか6年で120万石程度の所領を獲得しているのは驚く。その軍事行動にはいささか無理がある行動も多いが、人取り橋の戦いで佐竹義重らの連合軍を撃退し、芦名家を摺上原の戦いで一気に破り、滅ぼしているあたりのスピード感を見ると、並々ならぬ軍略の際の持ち主ではないかと思われる。しかし、その後の大坂の陣では、伊達軍の半分にも満たない真田の軍勢に激闘の末翻弄され撤退を許すなど、守勢に回った時のもろさを感じさせられる。真田幸村相手では勝てない程度の軍略って事か。(笑)
③ 外交・交渉能力
派手好みで、巧みなように思えるが、結構ぼろが多い。父輝宗の死後、周囲の大半が敵に回り、伊達家存亡の危機に立たされたり、豊臣秀吉の天下統一が目の前に迫っている時勢において、秀吉に臣従している芦名家を攻め滅ぼすなどは、単なる若気の至りでは済まされない。結果、小田原攻めの時秀吉に臣従して伊達家の滅亡は免れたものの、獲得した会津の所領を没収され、その後旧大崎・葛西領の一揆で扇動したとされて旧領を没収されるなど、余計なことをして結果損をしていることが多い。関ケ原時点での行動を見ても、徳川方に味方しているふりをして、石田方にも誼を通じ(まあ当時は大半の大名がそうであったろうが)、挙句の果てに南部領で和賀一揆を扇動するなど、ここでも余計なことをして結果的に得たものはほとんどなかった。江戸幕府には臣従していても、方やスペインとの交易を単独で試みるも失敗したり、家康の六男忠輝に娘を嫁がせ、徳川家に一定の影響力を保とうとするも、その忠輝が改易されるなど、実りが全くない行動が多い。こんな状況でも仙台藩62万石は江戸時代260年間安泰であったのだから、運があまりにも良すぎる。
 その性格
まあ、大胆というか派手好み。緻密さもあり、知略にもたけてはいるが、策士策に溺れる傾向が多い。
これは、幼少の頃に疱瘡にかかり、右目を失ったコンプレックスが故のことであろうか。母には疎んじられ、弟ばかりをかわいがられた結果、屈折したものが残ったことは間違いない。そのコンプレックスを埋めんがため、大胆な行動に出たり、時には姑息な策を弄してしまうところがあったのだろう。
江戸時代に平和な時間が訪れたことは、危なっかしい行動に出がちな政宗にとってはむしろ良かった気がする。平和な時代に彼は多種多彩な趣味を持ち、楽しめたことは幸運だったといえる。
   管理人の政宗評
「独眼竜政宗」=渡辺謙、の印象がとてつもなく強い。一人のキャラの印象がここまで一人の名優に印象強く残されることはそうそうない。その渡辺謙の若々しい荒々しさ凛々しさが、伊達政宗のイメージそのものになって今日まで至る。
上記の政宗に対しての能力評価はかなり辛らつになってしまったが、そんな実像を覆すほどの印象を「独眼竜政宗」というドラマは持ってしまった。
私は政宗が、あと10年早く生まれたらとか、あるいは中央に登場した人物であったら天下を取ったとか、そういった意見にはくみしない。おそらく、どんな状況であっても政宗は一介の「伊達男」的存在、おそらく一大名で終わったのではないか。思い切りは良いけど、本当に強い相手には弱い。大坂の陣で真田に翻弄されまくり、味方であった神保の軍勢を誤って全滅させてしまうなど、支離滅裂だ。仮に徳川が家康の後が続かなかったとしても、伊達家の天下になったとは思えない。徳川にとっては、島津や毛利などの西日本の勢力の方がよほど面倒だったに違いない。
しかし、それでも面白い存在であったことには変わりはないだろう。奥州から関東を一気に攻めて、中原へはせ参じるであろう、そんな印象を抱いてしまう男、それが伊達政宗なんだろう。


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