政界進出
 ~大戦景気~
 


   大正初期の日本の経済事情
第一次世界大戦を終了したころの日本の経済事情はどのようなものだったのだろうか?
明治の末頃から大正に至るまで、日本の経済は対外的対内的に行き詰っていた。対外的には年々莫大な輸入超過が続いており、それに外債利払いのために所有正貨は枯渇し、民間では不況のため銀行会社の破たんが目立っていた。ところが、大戦が起こり、戦争が進展してくると、この事情は一変し、日本資本主義は大戦によって飛躍的な発展を遂げたのである。
大戦が起こると欧州諸国からの輸入がまず途絶え、やがて逆に、これらの諸国から軍需上大量注文が殺到することとなった。さらにまた、それまで欧州諸国から輸入していた東洋諸国、南米諸国が日本から輸入することとなり、日本の輸出貿易は急速に増大し、異常な輸出超過となった。貿易外収支も従来の支払超過を一転して大正4年から受取超過となった。大正4年から7年までの4年間に輸出超過額計約14億円、貿易外収支計約14億円、合計約28億円である。大戦終結後も大正8年および9年の貿易外受取超過は巨額で、両年あわせても9億円にのぼっている。したがって大正3年11億円の債務国であった日本は大正9年には27億円の債権国となったのである。
対外的にこのような発展をしたということは、国内においてはまた異常な産業企業の発達があったからできたわけである。会社数は大正3年の7053から、大正8年委は13174と約2倍になり、資本金は17億7千余万円から百七億六千万円と6倍に達している。職工数も大正3年の94万8千人から大正8年には161万2千人に激増した。全国銀行預金額は約23億3千万円から、約82億3千万円と3倍以上に増大した。
日本の経済がこのように膨張したのは、大戦という特殊な条件のもとにあったからである。どんどん新設したり、設備を拡張したりした産業企業にとっては、どんな採算のもとにそうやっても、企業として成り立つ事情にあったわけである。ところが、戦争が終わるとこの特殊事情はなくなり、平時においては対外的には企業の国際競争力が問題となる。そのときには、戦争中という特殊事情のうちに設立拡張された企業は、そのままでは到底成り立たなくなる。戦後経営の焦点はここにある。この戦後経営にあたった原内閣と高橋の財政政策が「積極放漫」と呼ばれるものであった。
 積極放漫財政
大正7年11月、欧州大戦が休戦になると、いままで輸入途絶のため騰貴していた商品、染料、薬品や軍需上騰貴していた商品、鉄、生糸、綿製品などは崩落した。大正8年初めにかけて反動的な様相を呈した。ところが実際には、ヨーロッパの交戦諸国は簡単に復興できるものではなく、従って戦争が終わると直ちに世界市場に競争相手となって現れるものではないことがわかり、またアメリカが引き続き好景気であるという事情から、日本の景気も3月頃を境に再び好況に転じ、やがて戦中を超える熱狂的なブームに発展するのである。そしてこの景気の刺戟に政府の政策が大きく作用したのである。
井上準之助日銀総裁も大正8年4月、関西銀行大会において「戦後貨物の需要が著しく減少した為、消極的方法を取ることも一つの方策だが、戦時中拡大された生産の全能力を発揮して、内地の受容に超過した貨物はこれを積極的に海外に捌く方法を取る」と積極的な態度を示し、これに基づいて日銀は銀行引受金融手形を実施した。これは日銀が「銀行引受手形中相当確実なる基礎を有する事業会社等に於いて資金の融通を受ける目的をもって作成したる所謂金融手形の割引を為すの便法を設け」たということである。戦時中に建設拡張され、休戦によって困難に陥った大企業に対して、一般銀行が容易に救済できるようにしたということである。
 高橋も積極財政を推進
膨張政策と共に、高橋蔵相は景気維持について低金利維持による産業振興政策を堅持した。実際、景気が過熱化の傾向を見せてくると、大正8年10月及び11月の二度日銀は、投機熱の殷盛に対して金利引き上げを行ったが、充分なものではなかった。そこで大正9年1月衆議院で浜口雄幸が、通貨を収縮し物価を引き下げるためには、あれでは不十分ではないかと質問したのに対して、高橋は次のように積極的態度を示した。
「世にこっれまでいう通貨収縮論の主張は、主として金利政策、金利を引き上げて、もってこの通貨を収縮する、こういうことに帰着するようであります。金利を引き上げて通貨を収縮するということは、我々の考え得るところでは、人々に資本をなるべく使わせないようにしようとすることである。事業もなるべく起こさないようにしようということである。金利を引き上げるということは・・・・これまで成り立った仕事も、その高い資本に対して、相当の利益を上げることができなくなって必ず不景気が来る。我々の方針ではないのであります」
このような積極的な態度は、財政上においても膨張政策となって現れた。大正8年度予算は寺内前内閣が編成したものに多少の手直しをしたもので、必ずしも高橋の編成したものとは言えないが、それでも予算額で、寺内内閣の最後である大正7年度に比べ、2億4千万円の増加で、10億6千4百19万円となった。大正9年度の予算になると、政府は教育の充実、国防の拡充、通信機関の拡張を計画し、このため9年度の歳入出は各13億9千6百万円を算し、翌10年度の予算ではさらに歳入出15億9千百万円に膨張した。また従来5千万円を計上してきた減債基金を大正8年度には3千万円に減少させ、翌9年度からは廃止した。このような積極財政実施のための増収の増加は、増税と公債の募集によった。この公債募集は当然インフレーションにつながるものであった。




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