秋山兄弟 ~兄弟の誕生~ |
松山藩は、関ケ原の合戦後、豊臣秀吉の譜代の家臣であった加藤嘉明が、その戦功を徳川家康から認められ、松山に所領を与えられたことが始まりである。嘉明はさしたる善政も若かず、ただひたすら松山城を美しい城に作り上げることのみに尽力したと言われている。 春や昔 十五万石の 城下かな 正岡子規が詠んだ句であるが、今でも美しい松山城は、加藤嘉明というさしたる面白みもない人物により築かれた城である、というのは言い過ぎであろうか。 結局嘉明はその後、会津に転封され(以後改易)松山には徳川親藩の久松松平氏(家康の異父弟筋)が幕末まで治めることになった。 徳川親藩という家柄からか、幕末の動乱期において松山藩は、佐幕派として幕府と運命を共にする立場にあった。その結果、15万両もの借金を抱え、多くの武士たちの生活は困窮した。
秋山久敬は温厚で教養もある人であった。幸いにしてそのような人柄が幸いしたのだろう。県の学務課に職を得て、どうにか食べていけるだけの見通しはついた。それでも秋山家は、五人の男子がいたため、彼らの学費を賄うには十分ではなかった。秋山真之が生後間もなく寺へ預けられそうになった際、将来勉強してお豆腐ほどの厚さの金を稼ぐからと、10歳の好古が両親を説得したという逸話がある。
好古は父・久敬、母・貞の三男として安政6年(1859)に、真之は慶応4年(1868)にそれぞれ誕生している。 好古は7か月足らずの早生児であったため、虚弱体質であり、幼いころは泣き虫でいつも鼻を垂らしていたことから「鼻信」とからかわれることもしばしばであった。だが、頭脳明晰で、藩校明教館や私塾においては抜群の成績を修め、ほかの生徒に素読を教えるほどであった。 真之は末っ子であった。兄好古とは対照的にわんぱくでガキ大将的な存在であり、それでいて好古同様に頭脳明晰で再起活発であり、よく遊びよく学んだ。 彼ら兄弟はいずれもしっかりとした教育を受けている。厳しい武家の子弟教育は、明治になってからも変わらなかった。そのバックボーンがあればこそ、好古、真之が後年日露戦争などで活躍したといえるだろう。 |