浦賀沖にやって来た黒船 ~黒船四隻がやって来た~ |
ペリー来航の翌7月9日、艦隊へ2回目の交渉に行ったのは香山栄左衛門である。香山も初日に交渉へ赴いたの中島三郎助と同じ与力であった。浦賀奉行所は在勤の奉行と江戸城詰目の奉行の二員制で、1850年の増強後は、その下に組頭が2名、さらに与力が28騎、同心が100人の編成である。 オランダ通詞の堀辰之助と立石得十郎を介して、アメリカ側に伝わった香山の役職名はガバナーである。日本語では「総督」ないし「奉行」になるが、英語のガバナーは強大な権限を持つ。イギリスでは植民地とした香港の総督を指し、アメリカでは州知事を指す。中国では一省または複数省の最高責任者の「総督」ないし「巡撫」で、権限も給与もペリーを遥かに凌ぐ。日本では、そのガバナーが出てきた。 香山の記録には、ペリー副官のコンティが「談判をするために来たが、まずは国王の書簡(米国大統領国書)を上官の者に渡したい。艦隊はカリフォルニアから来た」と言ったという。 香山は長崎へ行くよう諭した。コンティが「ならば江戸へ乗り入れる」と返し、「決裂も辞さないつもりか、用向きには白旗を立ててくれれば鉄砲は打たない」とも付け加えた。「異人一同、顔に殺気をあらわし」と香山は記す。
当時、日本が所有する大型船は、千石船と呼ばれる物資運搬の廻船で、約百トンである。すべて沿海航行用の平底船で、船艇の深い外洋船ではない。1641年のキリシタン禁制などを目的とする、いわゆる鎖国政策完成から約200年が経過。この時点では大型外洋船の所有・建造の禁止が鎖国の大きな柱になっていた。目測で「三千石積の舟(約300㌧)」と伝えているが、これは明らかな誤測である。 ペリー司令長官を乗せた旗艦サスケハナ号は2450㌧の蒸気軍艦、3倍どころか約8倍、全長78ⅿ。ミシシッピ号は1629㌧の蒸気軍艦、他の二隻は800㌧ないし900㌧級の帆船である。四隻の乗組員総数が988人にものぼる大部隊である。
翌年の第二回来航には、蒸気軍艦ポーハタン号が合流する。これは1852年建造の新造軍艦で2415㌧(乗組員300人)である。合わせて三隻之蒸気軍艦は、いずれもスクリュー型以前の外輪船で、船体の両脇に付けた水車のようなパドル(外輪)を回転させて進む。マストは3本、蒸気走と帆走を兼ねており、汽帆船ともいう。正真正銘、世界最大・最新鋭の黒船であった。ペリー艦隊は巨大な軍菅を前面に「砲艦外交」を突きつけるように見える。 「超大国」イギリス海軍でさえ蒸気軍艦は、1000㌧規模であった。1600㌧から2500㌧級の蒸気軍艦はアメリカ海軍だけである。アメリカの海軍だけが何故巨大な蒸気軍艦をもっていたのであろうか。 |