黒船乗船 ~桂小五郎と出会う~ |
休む間もないまま、3月15日、三郎助は佐々倉桐太郎と共に陸路、戸田村へ向かった。江戸から帰ったとたんの戸田村行きの命令には理由があった。ヘダ号の出帆が迫っていたのである。だが、三郎助が戸田村に着いたとき、すでにヘダ号は戸田港を出た後であった。(3月19日)前日に出帆していたのだ。三郎助は「疲労も弥増して茫然としてやすらい居ける」と、この時の報告「南豆紀行」に記ている。 しかしヘダ号に不具合が発見され、その日の午後にヘダ号が戸田村へ戻ってきた。翌日から、三郎助は戸田村でヘダ号の調査を行っている。
このころ、三郎助のもとに、長州藩士桂小五郎(木戸孝允)が訪ねてくる。長州の蘭学者東条英庵と一緒であった。船大工も二人同行していた。小五郎は、三郎助のもとで洋式造船術と西洋兵学を学びたいという希望を抱き、弟子にしてほしいと訪ねて来たのであった。 三郎助は、客人の待遇で小五郎たちを迎えた。ちょうど柏屋勘左兵衛の作業場では、ヘダ号の図面をもとにして君沢型スクーナーの建造も始まったところである。船大工二人は勘左衛門の作業場に詰めて、洋式船建造を学ぶことになった。 小五郎に対してえ、造船術と西洋兵学なら三郎助に学べと勧めたのは、同じ長州の吉田松陰である。松陰は、ペリー再来航の直前に、熊本藩士宮部鼎蔵と共に中島家を訪ね、三郎助、それに清司と一夜親しく懇談している。その時の話題も、洋式造船術と西洋兵学であっただろう。海防策についても、また開国・通商も話題になったであろうことは十分に想像がつく。つまりこのころ、造船技術者・海防問題の専門家としての三郎助は、一奉行所の与力でありながら、知る人ぞ知るという水準の人物だったのだろう。 |