黒船乗船
 ~鳳凰丸~
 


 ペリー再来航
嘉永7年(1854)1月9日、ペリー艦隊が再来航する。今度は七隻の艦隊である。前年、幕府に提出した大統領親書に対して、回答を聞くための再来航であった。
次は来春という予告であったが、幕府の目算よりも2,3か月早い来航であり、関係者は慌てた。鳳凰丸もまだ建造途中である。進水こそ前年11月であったが、まだ艤装は終わっていない。
再来航すると、ペリー艦隊は江戸湾に入り込み、猿島の北、現在の横浜市金沢区乙舳沖に投錨した。浦賀奉行所はただちに与力の佐々木桐太郎・近藤良治らを艦隊に派遣、浦賀沖に戻って停泊するよう求めたが、アメリカ側はこの要求を拒否した。
17日、中島三郎助が交渉を命じられた。三郎助は奉行所支配組頭の黒川嘉兵衛とともに艦隊のポーハタン号に赴き、改めて浦賀に戻るよう交渉する。
一旦会議が休憩に入り、三郎助たちはポーハタン号の艦内を案内された。その時の様子を、ウィリアムズは「ペリー日本遠征随行記」にこう記している。
「昨年最初の訪問者、中島三郎助が今日も来艦しており、甲板の巨砲の寸法を詳しく測って図面を描いていた」
4日後の21日も三郎助は訪問している。
「彼の頭の働きは大したもので、しきりに知識を深めている。今日は釣り糸でこの艦の長さを測っている。甲板の大砲や備品などの寸法はとっくに取り終わっていた」
更にその翌日も。
「午後、一人の日本人が腹痛を訴えた。三郎助は、白銅製の内部が三つに仕切られた小箱(印籠)を取り出し、丸薬を取り出し、水を混ぜて患者に与えたところ、すぐ痛みは薄らいだようである。このてきぱきした処置の取り方は、彼がずぶの素人ではないことを示すものだった。」
ウィリアムズは、最初の来航時の時の三郎助の評価を完全に改めている。
もっとも、2月10日の日米会談初日の場の三郎助に対しては。
「例によって三郎助は飛び回り、行く先々で大声を上げていた」
三郎助は、奉行所与力としても、技官としても、率先して現場で働き、部下を叱咤しつつ指揮するタイプの男だったのだろう。この会談が始まったところで、三郎助は応接掛の職を解かれ、浦賀に戻って新造船建造に専念することになる。このペリー再来航の時の働きに対して、後に三郎助は白銀15枚が与えられた。
 鳳凰丸完成
鳳凰丸の建造も、順調に進んでいた。
日米和親条約締結から1か月後の嘉永7年の4月、瀬戸内海の塩飽諸島から、水主たち30人が雇われて来た。鳳凰丸を帆走させるための水夫としてである。
しかし、三檣パーク型帆船を扱うことのできる水夫・航海士は、当時の日本にはいなかった。誰がその30人の水主たちを訓練したのか。可能性がありそうなのは、アメリカ人の捕鯨船で一等航海士であった中浜万次郎である。
万次郎はペリー来航直後、江戸に召し出されて、江川英龍の手付となっていた。ペリー再来航時には日本側通訳を務める含みである。徳川斉昭の反対で通詞としての働きはできなかったが、この時期、引き続き江川家江戸屋敷にいて翻訳の仕事にあたっていた。英龍と浦賀常駐の下曽根金三郎との接点、また鳳凰丸の建造許可がペリー来航後に出ている事を考えれば、水夫、航海士たちの訓練に万次郎をあてるということは、建造の前提だったのだろう。
5月、鳳凰丸が完成する。5月5日には鳳凰丸の乗組員が決まった。中島三郎助は、同僚の佐々木桐太郎と一緒に艦の副将に任命された。
鳳凰丸の最初の航海試験は5月11日であった。浦賀奉行以下130名を乗せた鳳凰丸は、館山沖まで帆走した。
評判高まる三郎助
一方、この建造の間に三郎助は、明神崎台場の青銅製大砲の鋳造修理を行っている。この働きに対して、褒美として白銀3枚が与えられている。
当時の砲術には製砲技術も含まれていたにせよ、三郎助の技術者としての守備範囲は広い。ペリー艦隊の船の中で大砲の形状や構造、寸法等をどん欲に調べていた事実にも納得できる。
翌安政2年(1855)2月下旬、鳳凰丸は品川へ試験航海した。三郎助以下、浦賀奉行所の与力7人・同心28人・水主や船大工など総勢104人が乗り組んでの航海であった。途中、鳳凰丸は艦砲射撃訓練も実施している。
3月下旬からは、幕府要人たちによる試験航海と遠州の見分けが開始された。筆頭老中の阿部正弘以下、老中・大目付・若年寄ら幕府のトップ280人あまりが、次々と鳳凰丸に乗り込み、帆走の様子や砲術演習を見分したのである。この見分は3月12日まで続けられた。
鳳凰丸の評判はよく、演習も大成功である。洋式船への評価が高まったばかりではなく、この船を際めて短期間に、外国人技術者の手を借りることもなく建造した浦賀奉行所の評判もまた高まったのであった。




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