黒船乗船 ~洋式帆船建造~ |
以前の提案よりもさらに軽敏で、自在に航行でき、大砲も搭載できる船を建造できないか。可能であれば、計画書を再提出のこと。この数年、浦賀奉行所が繰り返し提案してきた軍艦建造プランに、ようやく幕府中枢がのってきたということであった。 浦賀奉行所は、ペリー退去から2か月後の8月に、改めて返書でこう提案した。 「西洋の軍艦に対抗しようと考えるならば、すべての面で異国船に範を取って建造しなければならない。マリナー号を見分した船大工の話によれば、一艘4千3百両ほどの建造費用がかかりそうである。下田丸、蒼隼丸の代船として、二艘の建造を許可願えれば、できるだけ節約して建造する心づもりである。さらに、もっと軽敏な船も建造するつもりであるし、さらに大型軍艦や蒸気船建造のための調査も始めている」 奉行名による文書であるが、中島三郎助の父清司の認識がベースにあるようだ。また三郎助は、このころすでに具体的に大型軍艦や蒸気船建造のための準備にかかっていたのだろう。
具体的には、下田丸、蒼隼丸の代船は、長さ十八間(約32ⅿ)、幅四間半(約8ⅿ)、大砲十門搭載という仕様であった。帆柱は二本のブリック型洋式帆船である。ただし途中で計画変更があり、最終的には三帆柱パーク型となる。 幕府は浦賀奉行所から出された提案を了承し、長年続いてきた大船建造禁止令を解いた。浦賀奉行所に対しては、代船一艘、さらに応接・注進用の小型船二隻の建造を命じた。 嘉永6年(1853)9月7日、浦賀奉行は、三郎助と香山栄左衛門の二人を含む、与力・同心10人を御船製造掛に任命した。船大工は、戸田氏栄に従ってマリナー号に乗り込んだ奉行所御用達の柏屋勘左衛門である。 勘左衛門の作業場(造船場)は、浦賀湾の最も奥、大ヶ谷栃ヶ浦(現住友重機工業浦賀艦船工場敷地内)にあった。この造船所のある場所には、後に日本で最初のドライドックが造られ、アメリカに向かう直前の咸臨丸が修理を受けることになる。 作業場には、菱矢来がめぐらされ、幕が張られて、町民の出入りは禁止された。作業中のくわえ煙草も禁止、喧嘩口論や作業場内での飲酒もご法度である。 9月19日から、建造が始まった。完成の目標は、翌年ペリーが再来航する前である。せいぜい6か月ほどしか時間が無かった。建造はかなりの大車輪で行われた。この船が、のちに鳳凰丸と名付けられる日本最初の洋式帆船である。 |