黒船乗船
 ~国書受理~
 


 国書受理の日
久里浜での国書受理の式については、海岸に仮設された応接所の中で、極めてよそよそしく形式ばった形で執り行われた。日米双方が不測の事態を警戒して、幕舎の周囲に武装兵を配置した。この日初めて日本側に姿を見せたペリーは、日本側責任者、戸田氏栄と井戸石見守に話しかけたが、二人は交渉しないという建前から返事をしなかった。
式が終わると、アメリカ側はこの式典に到るまでの交渉の現場担当者たちを、船に招待した。香山栄左衛門・中島三郎助、それに堀達之助と立石得十郎のふたりの通詞である。ウィリアムズは浦賀の軍司令官も招待されたと書いてあるので、この式典のあいだ銃隊と騎馬隊を指揮していた下曽根三郎も含まれていたかもしれない。
三郎助は、この招待に飛び上がる想いであっただろう。サスケハナ号に乗ると、遠慮なしに船内の方々を見分し、蒸気機関の動くさまを観察し、寸法を取り、アメリカ人たちを質問攻めにした。
 必死の見分
「日本遠征記」は、その三郎助の様子をこう記している。
「三郎助は大胆で、でしゃばりであった。香山栄左衛門は理知に富んで好奇心を示していたが、中島はしつこく詮索好きであった、栄左衛門は何時でも物静かで、鄭重で、控えめな紳士であったが、三郎助は絶えずガサガサし、粗野ででしゃばりであった。三郎助は誘われると否とに拘らず、その臆面のない、厚かましい顔を絶えずいたる所に突出し、自由にして好気的な興味を満足させるよりも、密偵として行動する方を欲するような風であった」
同じ情景を、ウィリアムズはこう書いている。
「彼(三郎助)の顔は、勇敢な英雄のように口が引き締まっていた。この男は、これまで艦上で会った人たちの中では、とりわけ頑固で、気難しい役人であった。そして我々がこれまで接触してきた、概して上品な人たちの中では、何でも覗き回り、目に付いたことを絶えず根掘り葉掘り調べる、好感のもてない男であった。」
サスケハナ号が久里浜で三郎助らを乗せて抜錨し、浦賀沖に戻るまで、正味1時間ほどの時間であったろう。このあいだ、三郎助はここぞとばかりに、船の中を見分したのだ。すでに浦賀奉行所で洋式船建造の担当者という立場にある以上、三郎助は単なる日本人男児という立場でものを眺めるだけではいられなかった。技術者の眼で、船の構造と蒸気機関、そして武装についての知識・情報を得ようとするしかなかった。その姿は、あくまでも「奉行」を装って泰然としている香山とは、対照的にならざるを得なかった。
 開国と海防策の提案
ペリー艦隊が去った後、老中阿部正弘は日本の対外政策と海防問題について、広く意見を求めた。大名はもちろん、幕臣から陪臣、学者や市井の者にまで、資格を問わずに意見書を出せと呼びかけたのである。
中島三郎助も、浦賀奉行所の組与力という立場から二通の意見書を出した。この中で、三郎助は打払い令停止はこの上ない仁政であるとし、国際的な情勢、軍事技術の発展に触れた後、日本でも軍艦を建造して国際情勢の調査に海外派遣すべきだとしている。
さらに江戸湾の防備計画として、羽田沖の浅瀬など台場増設の一を具体的に提案、相模から江戸湾内海にかけてはすべて大名家を封じ、砲台を築かせ、軍艦数十隻を繋留させて警備に当たらせよと主張している。さらに、漁師や百姓に軍事訓練を施して農兵とせよとも提案していた。江川英龍が提案した海防案とよく似た内容である。
開国か否かという問題については、三郎助は試験的開国を主張。これは「数年後に再び鎖国」ということではなく、試験的に鎖国してみたら、きっと鎖国の無意味さがわかり、反対もなくなるであろうということだったはずだ。
さらに、具体的な海防案を提案した。以下、「中島三郎助文書」から要約する。
「江戸湾防衛のために、湾口を阻止線とするのは当然であるが、これを守るためには台場だけでは不十分である。進退自在の大小の軍艦およそ三十隻が必要である。このうち6隻は蒸気船であるべきである。現在、江戸湾周辺の警備は四藩の受け持ちであり、浦賀奉行所は浦賀港の守備の為の台場だけを管轄しているが、浦賀奉行の手にも守備隊の一部隊の配属が必要である。軍艦三十隻のうち三分の二は江戸湾警備の諸藩に所属させ、残り三分の一を浦賀奉行所所属とする」
浦賀奉行の一人が常勤で艦隊を指揮するという提案もあり、これは、浦賀奉行所が事実上の徳川海軍たるべしということと同義であった。




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