黒船乗船
 ~ペリー艦隊~
 


 マリナー号来航
中島三郎助永胤が父清司の跡番台として与力となったその月、つまり嘉永2年(1849)閏4月、イギリスのマリナー号が浦賀に来航、奉行に面会を求めた。
このときの現地の浦賀奉行は、戸田伊豆守氏栄であった。氏栄は海防体制の改革に意欲的な幕臣であり、筆頭老中である阿部正弘が、洋式海軍の創設と軍艦建造の政策を推進するため、浦賀奉行に任命したのだと言われている。
マリナー号来航の二月前、三郎助はその奉行の氏栄に対して、警備船下田丸を洋式に改造することを建議していた。大船が建造許可とならない以上、奉行所所属の和船を改造して、大砲搭載を可能にしようという提案であった。
マリナー号を目の前にして、氏栄はすぐ三郎助の提案を思い出したのか、彼は与力たちとともにマリナー号に乗り込むとき、浦賀の船大工を同行させた。退去交渉が行われた後、同行の与力や船大工たちは、マリナー号のマセソン艦長の了解を得て艦内を見学。その構造を細かく見分している。このときの船大工は、奉行所御用達の柏屋勘左衛門であったらしい。
このマリナー号は浦賀を退去したのち、伊豆の下田に向かい、湾内に投錨して測量を始めた。下田で退去交渉を行ったのは、江川英龍であった。
マリナー号退去の後、浦賀奉行所が建造した船が蒼隼丸である。スルーブ型と伝えられており、佐賀藩などから入手した図面をもとに建造されたものであろう。三郎助が直前に下田丸の改造を提案していること、彼が後に洋式帆船鳳凰丸の事実上の建造責任者となっていることから考えて、彼は蒼隼丸の建造についても責任者であっただろう。
 ペリー艦隊来航
嘉永3年(1850)7月、西浦賀の館浦にあった玉薬製造所が失火、炎上した。蒼隼丸・下田丸も焼失し、その責任を三郎助がとることになった。彼は自宅謹慎の処分を受けている。
その一方で、うれしいこともあった。家庭では、嘉永元年1月に長男恒太郎が生まれ、同4年には次男の英次郎が生まれていたのだ。
同5年の秋ごろから、浦賀には翌年アメリカ船が来航する、という噂が伝えられるようになった。3月に石炭置き場借用を求めるためと、来航の時期と理由も明快であった。これは、オランダ商館長クルチウスからの情報がもとになっている。
浦賀奉行所は、噂の真相を幕閣に確認したが、渡来せずという返答しかなかった。
それでも奉行所は万が一に備え、同6年3月になると砲術の演習も休み、即応できるようアメリカ船渡来に備えたシフトを敷いた。しかし、4月となり、5月が過ぎても噂のアメリカ船は現れない。6月1日、浦賀奉行所は警戒態勢を解いた。下曽根金三郎指揮による砲術の演習も再開した。
久里浜で砲術演習が再開されて3日後の午後、三浦の役宅から急報が届いた。蒸気船と思われる船二隻を含んだ四隻の異国船が、江戸湾方向に向かったと。
演習はそこで中止となった。
奉行所の一行が浦賀に戻ったとき、すでに浦賀沖に四隻のアメリカ船が投錨していた。ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊であった。




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