2黒田如水の出自
近江源氏の末裔黒田氏

    佐々木源氏の流れをくむ
如水は智を以て身を立て、智を以て身を危うくし、智を以て身を全うした、といわれる。まさに己一個の才覚を以て、戦国乱世を生き抜き、黒田氏を播磨の一介の豪族から、筑前52万石の太守にまで押し上げた人物が如水であった。しかしながら、如水は名もない庶民の出ではない。近江源氏佐々木氏の流れを汲むという。
これを物語る一つのエピソードがある。
天正8年9月、如水は所領1万石を与えられ、今後は軍陣に旗を立てることを秀吉から命じられた。如水が父職隆に自家の旗の制法を尋ねたところ、近年、黒田家は衰微し、正式の旗も失い、旗を立てることは中絶した。再び旗を立てることは家門興隆の兆しである。当家は佐々木氏の流れなれば、佐々木家の法を用いるべきである。混白の真ん中に四目結びの紋、上に八幡大菩薩・佐々木大明神の名を書きつけ、これを「二尊の旗」と呼ぶと答えた。如水は佐々木家と同じでは如何かと思い、上下を黒く、中を白くした中白の旗を六本仕立て、黒田家の旗とした。そして職隆の言葉に従い、これを姫路の惣社社前に立て、17日の祭礼・祈祷を行って御神体を勧請した。以後、如水の軍陣の先頭に、この旗を立てて進み、一度も不覚を取ることはなかったという。

    近江から備前へ
「黒田家譜」によれば、黒田氏は宇多源氏佐々木氏の流れを汲み、その14代目、京極満信の次男宗信が近江国伊香郡黒田邑に住み、黒田判官と号したことに始まる。13世紀末のことである。以後代々、黒田邑に在って近江源氏の旗頭を務めたという。
黒田邑は琵琶湖の北岸、現・滋賀県伊香郡木之本町にあった。かつて金子賢太郎は、この地に遊び、黒田判官の旧跡や寿徳寺を訪れ、また、その住民の中に大音・馬杉など黒田重臣と同じ名を見出し、いにしえを偲んだという。
宗信から6代目の高政は永正8年、近江守護佐々木高頼に従って山城国船岡山の戦いに出陣したが、軍令に背き、先駆けしたため、将軍足利義稙の勘気を被った。高頼の詫び言により罪は逃れることができたが、高政はついに4歳の重隆をつれ、わずかの郎党と共に備前国邑久郡福岡邑に移り住んだ。この地に同族加地氏・飽浦氏が在ったため、その誼を頼ったのだろう。
福岡邑は吉井川の東南に位置し、この地には殿屋敷・堂屋敷・七小路・七ツ井戸など、黒田氏ゆかりの遺跡が色々残っている。のちに如水が筑前に居城を築いたとき、福岡城と名付けたのも、流浪の父祖の苦心を思ったためである。ちなみに、この村の庄屋職は如水のおじ、黒田定玄の子孫、太郎左衛門が相継いだと伝える。
     姫路へ
大永3年、高政が亡くなると、その翌々年、播磨の浦上宗則が備前各地を侵し、国中が騒然となった為、重隆は福岡を去り、播州姫路に難を避けた。そして館野の赤松晴政に仕えたが、その人物に失望し、辞して再び姫路に閉居した。
この重隆の姫路行きは、播州へ赴き、広宗大明神を頼みたまえという佐々木大明神の夢告によるものという。竹森という百姓方に身を寄せ、広宗の神主井口大夫に会い、今後の渡世について相談したところ、井口大夫は黒田家伝来の目薬を製造・販売することを勧めた。重隆は竹森・井口氏らの協力を得て、目薬を売って米銭を稼ぎ、田畑を買い、財を築いたといわれる。こうして黒田氏飛躍の基礎を築いたのであった。黒田氏は貧窮の中にあったが、在地の土豪などの支持を得て、着々と兵を養い、実力を蓄えたのである。竹森・井口氏らは、のち黒田氏に仕え、その重臣に列する。また、この黒田家家伝の目薬は「玲珠膏」といい、のち如水の妹婿、三木清閑の家に伝えられたという。
 





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