甲陽軍鑑 ~著者・小幡景憲~ |
この書物の各章(品)の末尾には、天正3年(1575)武田信玄の老臣高坂弾正昌信が書いたという奥書がある。高坂は、豪農の出身で、16歳の時、信玄の近習に取りたてられてその寵童となり、侍大将、信濃小諸城代を経て、海津城代となり、川中島の戦いで活躍した武将である。 しかし、これは高坂に仮託しただけで、実際の著者は、江戸時代初期の軍学者、小幡景憲で、江戸時代の初めに編纂されたものと考えられている。 「甲陽軍鑑」は、戦国時代に形成された武士の思想を集大成したものであり、「武士道」という用語が現れる最も早い文献の一つであり、編纂者である小幡景憲の門下には、吉田松陰が「師」と呼んだ山鹿流兵学の祖・山鹿素行がおり、その教えが幕末まで影響を与えている。
文禄4年(1595)景憲は突然秀忠のもとを去る。これは、秀忠を恨んだとかではなく、兵法修業の為の旅に出たのだとも言われている。慶長5年(1600)関ケ原の戦いでは、家康の重臣井伊直政の軍に属して戦い、敵一人を討ち、一人を捕える功績をあげた。 慶長19年(1614)大坂冬の陣の時は、加賀藩前田利常の軍に属し、真田幸村の砦に向かった。景憲は、高声で自分の名を名乗り、柵際まで進んだ。この時、家来の一人が鉄砲に当たった。景憲は、家来と共に少し退き、砦に攻め入る機会をうかがっていた。この時、景憲は、指物を落としてきたため、再び戦場に戻り、指物を取り返してきた。これによって、景紀の勇名はとどろくことになる。 翌年、大坂夏の陣では、景憲の勇名を知った大坂方の招きによって大坂城に入るが、密かに徳川方と連絡を取り、徳川家の勝利に貢献した。大坂の陣後、景憲は幕府への帰参が許され、五百石が与えられた。寛永9年(1632)には使番となり、翌年、千石の加増を受けた。 景憲は、もとの主君武田信玄の制定した法や軍略を研究し、甲州流兵学を大成した。旗本には元武田家の家臣が多く、幕府の兵学は甲州流を基本としていたので、二千人もの旗本が景憲に入門したという。 |