ドキュメント上野介
 ~要職歴任~
 


 勘定奉行に
文久2年(1862)6月、小栗は勘定奉行となった。四か月後に町奉行に転じ、その四か月後にはまた勘定奉行に復帰、五か月後に辞職し、歩兵奉行や陸軍奉行を経て三度目の勘定奉行、それから軍艦奉行になった後、四度目の勘定奉行というように要職を転々とする。
勘定奉行の初任がわずか四か月で終わったのは、薩摩藩と組んで琉球通宝を鋳造したからではなかろうか。薩摩の島津斉彬は、流通通宝の鋳造許可を幕府に求めていたが、実現を見ずに他界。斉彬の後継者である忠義の願いが文久2年8月に認められ、11月に鹿児島の磯で鋳造が始まった。琉球と薩摩領内に限っての通用、形状・量目・裏書は天保通宝と同じ、通用価値は一枚一二四文、三年間の期間限定通用、限度は百万両とし、鋳造高の十分の一ないし二を幕府に献納するという条件が付いた。
翌年7月、イギリス軍の砲撃で、鋳造施設が焼かれたため中止となったが、それまでの鋳造量は三十万両に達した。だがそのうちの二十万両には「天保通宝」の名が刻まれ、広島や大阪、京都に持ち出されて通用し、結果的には薩摩藩の金庫を潤した。その一方で、琉球通宝はさほど通用しなかったという。天保通宝を偽造、通用させるために琉球通宝の名が使われたと判断してよい。
 琉球通宝
薩摩側では、琉球通宝の鋳造は小栗上野介との提携のうえで行われたと解釈し、明治26年(1893)10月に行われた史談会の席上で市来四郎という人間が証言している。
その内容は、安田轍蔵というお抱え眼科医で理財の道にも詳しいものが勘定奉行の小栗と懇意だったところから、琉球通宝の鋳造を願い出て許可されたということらしい。天保通宝を流通させるために瀬戸内海の御手洗島に貿易会社を興したのが市来であるため、彼の証言は信用してよい。薩摩領内はもちろん、他領からも銅の買い入れを行い、大砲や梵鐘、銅鍋まで徴発して偽造を行ったこと、イギリス軍の砲撃で損傷した民家には手厚く補償をしたことが市来の証言で知られる。
薩摩藩の通宝偽造を暗黙に許可し、偽造総量の一、二割を献納させることで幕府も利を得た。偽造を許可した責任を取らせる名目で小栗を勘定奉行から町奉行に転任させたが、わずか四か月後に勘定奉行に復帰させた。小栗がひとたび、「おひきうけいたします」と断言すれば、ないはずの資金が魔法のように出てくる、そういう光景が浮かび上がるのである。
安田轍蔵は銭座の職人20人ほどを連れて乗り込んできたが、中には職人でないものも交じっていた。「その者たちは探偵者であり、小栗の策でございましょう」と市来四郎は証言している。
幕府と薩摩は提携し、正当と不法の両様を使い分けて貨幣鋳造を行う。職人集団のなかにスパイが混じっていたが、薩摩としては、小栗がスパイを送り込んできたのは察していた。だが、それをそのまま幕府に伝えることはせず、「知っているが問題にしない」と伝えることで、提携が一層強固なものになると考えているからだ。
 薩摩との提携
文久2年から始まる幕府と薩摩の提携、それはイギリスと薩摩の国際的な提携の日本内地版ともいうべきである。
きっかけは、8月に神奈川の生麦村でイギリス人が薩摩藩士に斬られた生麦事件。イギリスも幕府も殺害犯人の探索と責任を追及して薩摩を責め、薩摩はのらりくらりと逃げたが、幕府は老中格の小笠原長行の独断のかたちでイギリスに賠償金を支払い、陳謝状を交付して最高権力保持者としての体面を保った。文久3年5月の事である。
幕府は賠償金を支払いたくはないのだが、京都に結集している攘夷派の威勢が強く、薩摩のイギリス人殺害を称賛してやまず、幕府が賠償金を支払うものなら、それを大罪として天皇の名で幕府を攻撃しかねない。将軍家茂は、3月に上洛して以来朝廷に引き留められ、容易に江戸へは戻れない状況だ。もちろん朝廷に賠償金支払いを許すつもりはない。この苦しい状況を幕府は、小笠原の独断という形で乗り切ろうとしたのだ。
小笠原は賠償金を支払ったその足で神奈川へ行き、イギリスの代理公使ニールと船舶借用の約束を交わし、ライモン号と朝陽丸の二隻に歩・騎・砲の三兵あわせて二千人余りを乗せて大阪で上陸、京都に向かって行軍を始めた。文久3年5月30日の事である。三兵のうち歩兵千人は小栗が初代の歩兵奉行をしていた時に育成した。小栗の影響力の強い部隊である。俺が育てた歩兵が小笠原老中指揮の下でうまく働くかどうか、期待と不安の目で見ている。
在京の幕閣は、三兵が枚方まで進軍したところで小笠原を罷免した。将軍家茂は大坂城に移って三兵を鎮め、京都には戻らず、そのまま江戸に帰ることができた。小笠原の強硬策が成功したのを、小栗はある種の感動を持って眺めていたのではないだろうか。
朝廷や攘夷派の反対を無視してイギリスに賠償金を支払い、軍隊を率いて京都に乗り込もうとした小笠原の強硬策、小栗はそれを高く評価する。イギリスが幕府に接近し、長州を討つなら協力すると表明してきたのも、小笠原の強硬策を評価する小栗の自信を強めた。
イギリスと幕府の接近、提携の関係に薩摩が参加を表明して、文久3年8月の宮中クーデターを成功させた。そして翌年(元治元年)7月、武装して内裏に迫った長州藩に対し、幕府と薩摩の軍隊は協力して応戦し、圧勝した。蛤御門の変は幕薩提携の絶頂であった。小栗はこの時期、勘定奉行と軍艦奉行を歴任する。




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